ういろう(小田原外郎家)

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第三 小田原ヨリ三島マデ」(コマ番号3/14)
絵図の「城」と記述される、道が箱根口と思われます。そこの辻右に小田原外郎家があることになります。

  
ういろう (薬品)
[ういろうは、仁丹と良く似た形状・原料であり、現在では口中清涼・消臭等に使用するといわれる。外郎薬(ういろうぐすり)、透頂香(とうちんこう)とも言う。中国において王の被る冠にまとわりつく汗臭さを打ち消すためにこの薬が用いられたとされる。
14世紀の元朝滅亡後、日本へ亡命した旧元朝の外交官(外郎の職)であった陳宗敬の名前に由来すると言われている。陳宗敬は王朝を建国する朱元璋に敗れた陳友諒の一族とも言われ、日本の博多に亡命し日明貿易に携わり、輸入した薬に彼の名が定着したとされる。室町時代には宗敬の子・宗奇が室町幕府の庇護において京都に居住し、外郎家(京都外郎家)が代々ういろうの製造販売を行うようになった。京都の公家日記の一つである『吉田家日次記』には1402年(応永9年)に陳外郎が京都にあって医事に従事したとする記録[3]がある[4]。宗奇の孫にあたる本家4代目の祖田は足利義政が将軍であった時期の京都での活動が知られ、医薬や日明貿易・連歌を介して桂庵玄樹亀泉集証伊勢貞宗近衛尚通三条西実隆中御門宣胤らとの交友で知られている。
戦国時代の1504年(永正元年)には、本家4代目の祖田の子とされる宇野定治(定春)を家祖として外郎家の分家(小田原外郎家)が成立し、北条早雲の招きで小田原でも、ういろうの製造販売業を営むようになった。小田原外郎家の当主は代々、宇野藤右衛門を名乗った。この記録を裏付ける史料はないものの、この時期に陳祖田の被官とされる「宇野藤五郎」という人物が京都から駿河国今川氏親の下に下向したと記録されている。北条早雲(伊勢盛時)は氏親の後見人の立場であったことから藤五郎と面識があったことが十分に考えられ、この藤五郎は定治本人かその身内と考えられている。更に異説として『新編相模国風土記稿』には外郎家が京都から小田原に下向して北条氏綱が宅地を与えたとする説を載せるが、氏綱が当主になって間もない大永年間には小田原外郎家の活動が確認できる。従って、永正元年が事実ではないとしても永正年間に北条早雲・氏綱父子と外郎家の間に関係が成立して、その関係で小田原に移住した可能性は高い。1539年(天文8年)に宇野藤右衛門は北条氏綱から河越城郊外の今成郷を与えられ、『小田原衆所領役帳』にも今成にて200貫465文を与えられた馬廻衆の格式で記載されるなど、小田原外郎家は後北条家から所領を与えられて御用商人としての役割を果たしたとみられている。後北条家滅亡後は、豊臣家江戸幕府においても保護がなされ、苗字帯刀が許された。なお、京都外郎家は現在は断絶している。
江戸時代には去痰をはじめとして万能薬として知られ、東海道小田原宿名物として様々な書物やメディアに登場した。『東海道中膝栗毛』では主人公の喜多八が菓子のういろうと勘違いして薬のういろうを食べてしまうシーンがある。歌舞伎十八番の一つで、早口言葉にもなっている「外郎売」は、曾我五郎時致がういろう売りに身をやつして薬の効能を言い立てるものである。これは二代目市川團十郎が薬の世話になったお礼として創作したもので、外郎家が薬の行商をしたことは一度もない。
ういろうを売る店舗は城郭風の唐破風造りの建物で、一種の広告塔になったが、関東大震災の際に倒壊し、再建されている。
太平洋戦争中は企業統合により製薬企業及び薬品が統合されていったが、ういろうはそうした状況においても処方・製法が維持された。
現在も外郎家が経営する薬局で市販されているが、購入には専門の薬剤師との相談が必要である。
ういろう社(小田原市)・wikipedia-photo、「ういろう」(ういらう)とそのパッケージと説明・wikipedia-photo  (wikipedia・ういろう_(薬品)より)] 

ういろう (菓子)
[外郎薬を製造する小田原外郎家は、外郎家(京都外郎家)の分家として1504年(永正元年)に成立した。家祖は宇野定治(定春)で、本家4代目の祖田の子とされる。以後、京都の本家とともに外郎薬の製造を代々行なってきたが、江戸時代の元禄年間頃に本家が衰亡した後は、小田原外郎家が独占的に外郎薬を製造するようになり、現在に至っている。ういろうは京都の本家2代目の宗奇が考案し、外郎薬とともに製法が代々伝えられたとの伝承がある。
明治時代にういろうの販売を開始した。小田原外郎家では「お菓子のういろう」と呼ばれ、外郎薬と区別されている。「白・茶・小豆・黒」と「栗ういろう」「杏仁ういろう(季節限定)」がある。
小田原外郎家は元々薬屋であったため、ういろうに付いてくる説明書きには、胃腸の弱かったり病後の人間や成長期の子供、産婦なども安心して食べられる「栄養菓子」と記載されている。なお小田原城近くの本舗(本店)は、和菓子店や薬局として営業しているほか、1885年(明治18年)の蔵を利用した小規模の博物館を併設している。 
小田原のういろう(株式会社ういろう)・wikipedia-photo  (wikipedia・ういろう_(菓子)#小田原より)]

[欄干橋町(らんかんばしちょう)
この町は、「北条家朱印状」(1572 年)に初めて町名が見られます。
この町名の由来は、この町から城内にかけられていた橋の名前によりついたといわれています。町内には、小田原北条氏時代(北条早雲氏綱氏康氏政氏直の北条氏 5 代(1495〜1590 年))からの旧家「外郎(ういろう)家」(永正元年(1504)、北条早雲の招きに応じて京都から小田原に移り住み、祖先伝来の秘薬「透項香(とうちんこう)」を製造販売しました。)があり、江戸時代末期には、本陣(ほんじん:街道の宿場に置かれた大名、公家、幕府役人などのための旅館)1 軒、旅篭が 26 軒ほどありました。
なお、天保初期(1830 年代)、町内の戸数は 39 軒でした。  (「城下町・宿場町 おだわらの町名・地名 町人地 – 小田原市」より)]

小田原のお菓子 観光の際のお土産に|ういろう-ホームページ

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編] – 早稲田大学」 – 「請求記号:文庫30_e0205_0005 70カット」(コマ番号5-57 – 小田原外郎透頂香)

外郎藤右衛門薬局 – Google Map 画像リンク」「ういろう – Google Map 画像リンク」「小田原城(ういろう) – Google Map 画像リンク

カメラ北方向がういろう社です。カメラ方向左に旧町名保存碑(欄干橋町)があります。