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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第二 戸塚ヨリ小田原マデ」(コマ番号18/19)
絵図右方向にスクロールすると、「佐川」と記述されています。「佐川」が酒匂川のことです。「佐川」の左海岸に「一色」と記述されています。

[室町時代、千度小路(現在の本町・浜町界隈)に「船方村」と呼ばれる漁村が起こった。北条早雲は漁業を奨励し、網・釣り・突棒等が盛んになった。北条氏綱は、讃岐から地引網を導入し漁獲量が増加した。現代の魚市場に当たる「魚座(魚商人が結成した同業組合)」と呼ばれる魚分配所ができ、漁業と魚商が活発になった。
江戸時代、宿場町として魚の需要が増え、漁獲技術が各地から導入されて、カツオ、マグロ、アジ、ブリ、アマダイ、ムツ、カレイ、イカなど色々な魚が漁獲された。
・「初ガツオ」といえば、初物好きの江戸っ子が競って食べたことで知られるが、そのカツオは、小田原(あるいは鎌倉沖)で漁獲されて江戸まで運ばれたもの。
・カツオは、小田原では「江戸魚」と呼ばれ、カツオが釣れると 運搬船が横付けして、船中で値決めをして買い付けをした。また、マグロ釣りも盛んに行われ、マグロの内臓を原料とする塩辛は、小田原名物であった。
・本町に、魚市が開かれ「市場横丁」ができた。
明治20年頃から、酒匂村山王原(現在の東町)沖で10~11月、マグロ漁が行われた。春は二宮と梅沢の沖4キロにある瀬の海でアジ・サバ・キンメなどが一本釣りされた。
大正時代に、大敷網と呼ばれる大型の定置網が導入され、昭和30年代まで、相模湾の寒ブリは全国で有名になり、ブリ漁で小田原の町は賑わいを見せていた。船6艘・1020人程で、「木遣り」を歌いながら、1~3万匹程を水揚げした。 (「小田原. の魚が. 「すばらしい」ワケ. 小田原の魚の. ネタ帖」より)]
歌川広重『五十三次名所図会 十 小田原』、海岸漁舎(竪絵東海道)
[竪絵(たてえ)では、酒匂川を渡った先に広がる海岸の景色を描いています。画面手前の海岸では地引網(じびきあみ)で漁をしています。中景から後景にかけて海原が広がり、画面の奥行きが表現されています。 (「展示資料解説 | 藤沢市藤澤浮世絵館」より)]
カメラ位置は西湖バイパス・酒匂河口です。
カメラは酒匂海岸のカメラです。