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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第四 三嶋ヨリ江尻マデ」(コマ番号3/24)
絵図右方向にスクロールすると、右端に「大明神」と記述され、その左に「浄土宗 長ゑん寺」と記述されています。その下辻左、街道下に樋口本陣があることになります。
東海道三島宿・樋口本陣跡
[本陣について
本陣とは江戸時代五街道などの宿場に設けられ、大名、公家、幕府役人などが宿泊した施設で、大名宿とも言いました。
三島の宿にはここに樋口本陣、道をはさんで北側に世古本陣がありました。本陣の建物は書院造で、門構え、玄関、上段の間、控の間などの部屋や湯殿、庭がある広大なものでした。
三島市郷土資料館には樋口本陣文書(市指定文化財)と宿泊した大名の関札があります。なお三嶋大社には樋口本陣の茶室「不二亭」も移築されています。
三島宿について
三島は古くから伊豆の中心地として栄え、三嶋明神の門前町として大変な賑わいを見せていました。
慶長6年(1601)徳川家康は宿駅制度を作り、最終的には東海道に53の宿駅を設け、三島宿は江戸日本橋から数えて11番目の宿駅でした。また、三代将軍家光が参勤交代を制定した事により各大名の東海道往来が多くなり、箱根に関所が設けられると三島宿は「天下の険」箱根越えの拠点としてさらに賑うようになりました。
また、東西を結ぶ東海道と南北を結ぶ下田街道・甲州道との交差する位置にあった三島宿は、さまざまな地域の文化や産業の交流地点ともなっていました。伝馬、久保、小中島、大中島の4町辺りが宿の中心地で、実際の運営もこの4町が核となり行われていました。
三島宿は初代安藤広重の浮世絵代表作「東海道五十三次」では、三嶋明神鳥居前を出立したばかりの旅人が描かれています。また文政9年(1826)に訪れたオランダ人医師シーボルトが三島・箱根の自然観察記録を、安政4年(1857)には三島宿に泊まったアメリカ人ハリスが、宿泊先(世古本陣)の日本庭園の素晴らしさを日記に書いています。
(「三島アメニティ大百科」より)
なお江戸時代の三島宿や樋口本陣の復元模型等が三島市郷土資料館(楽寿園内)に展示されています。そちらもご覧ください。
本町・小中島商栄会 (「東海道三島宿・樋口本陣跡 – Monumento(モニュメント)」より)]
三島宿 樋口本陣跡案内板(Google Map 画像)
カメラ北東方向歩道縁石際に樋口本陣跡碑、家屋壁に案内板が設置されています。