三島宿 西見付・千貫樋

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第四 三嶋ヨリ江尻マデ」(コマ番号4/24)
絵図右方向にスクロールすると、右端付近に「伊豆 駿河 堺」と記述され、その上に「千貫どい」と記述されています。この右下空地が三島宿 西見付と思われます。

  
三島宿 西見付
[見付はもとは城門のことで、通行人を見張ることから起こった名称です。宿場の出入り口にあって宿内の見通しを防ぐ施設でもありました。夜間は扉を閉ざし通行人を止めるのが普通でした。
 西見付は江戸時代初期には源兵衛川石橋(現、広小路付近)のたもとに設置されていましたが、正徳(しょうとく)元年(1711)になり六反田以西の町民の要請により、千貫樋(せんがんどい)付近に移しました。ここも枡型見付です。  (「三島宿 – 三島市」より)]

千貫樋
[千貫樋 (せんがんどい)は、静岡県三島市駿東郡清水町の境、狩野川水系境川に架かる鉄筋コンクリート構造の樋(水路橋)。
三島市楽寿園・小浜池の湧水を、清水町に灌漑用水として送水するために、境川の上に架設されている。全長42.7m、幅1.9m、深さ0.45mで、地上より4.2mの高さを流れる。稲作期が終わると、三島市加屋町内に設置されている水門によりせき止められるため水は流れない。
創設された経緯については諸説あるが、1555年(天文24年)、今川武田北条の三家が和睦(甲相駿三国同盟)した際に、北条氏康から今川氏真に聟引出物として、小浜池から長堤(蓮沼川)を築き、駿河の今川領に送水させたというのが一般的な説である。
この疏水により、駿河側である現在の駿東郡清水町の玉川、伏見、八幡、長沢、柿田、新宿の田畑約130haが多大な恩恵を受けるに至った。
千貫樋の維持管理費は上記新宿村を除く村々が収入に応じた分金額を負担した。新宿村も分担するようになったのは明治時代に入ってからである。
江戸時代享保年間に町奉行で地方御用を兼任した大岡忠相配下の役人である田中丘隅が修理のために招かれたという記録が残っている。
1923年(大正12年)には関東大震災で崩落。その後の復興で鉄筋コンクリートを使用し、従来のものとほぼ同規模で再建されて現在に至る。
創設にまつわる異説
応仁(1467 – 69年)に造られたと伝えられてもいる。材質は木製だったとのこと。
文明元年(1469年)に木樋の千貫樋が完成した。
名称の由来(説)
●作る技術が千貫に値する。
●建設費に千貫を費やした。
●5つの地域で収穫される米が千貫に相当する。
現状と見学
千貫樋のすぐ南、境川に静岡県道145号沼津三島線の境川橋が架かる。橋上には千貫樋に関する案内板が建ち、橋上から千貫樋の一部分を見ることができる。
県道から路地に入り、千貫樋の北側に回れば、千貫樋の橋脚部分が見学できる。こちら側にも千貫樋に関する案内板が建つ。
千貫樋と境川・wikipedia-photo

水路の側面に「千貫樋」の標示(県道・境川橋より)・wikipedia-photo

千貫樋の流水・wikipedia-photo

ウィキメディアコモンズには、千貫樋の画像またはその他のファイルが含まれています。  (wikipedia・千貫樋より)]

千貫樋 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は境川橋で、カメラ北西方向に千貫樋があり、境川橋欄干前に案内板があります。三島宿 西見付はここの右方向にあったと思われます。