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二宮尊徳生家(神奈川県指定建造物)
[県指定 – 昭和38年3月5日
所有 – 小田原市
所在 – 栢山2064 尊徳記念館
形状
木造平屋建 茅葺
間口7間(12.74m) 奥行4.5間(8.19m) 床面積31.35坪(103.6㎡)
概説
二宮尊徳が郷里小田原(当時栢山村)で住んでいた家は、誕生の家と再興の家があり、誕生の家は、尊徳が16歳の一家離散の際に売り払われてしまいました。そして、24歳の時に寄食していた伯父万兵衛宅から独立した時、家を再建しました。
再建した家は、37歳の時、下野国(栃木県)桜町の復興にあたって、移住のために売却しました。この家は粗末な小家屋であったらしく、売却後どうなったか明らかではありません。
誕生の家は幸いに残り、柳新田の渡辺善太郎氏の住宅となっていたものを、尊徳記念館建設期成会が、昭和35年9月20日、尊徳の誕生した場所に復原し、市に寄贈されました。
尊徳は、天明7年(1787)7月23日この家で誕生しています。この家の建築年月は明らかではありませんが、おそらく祖父銀右衛門が兄の万兵衛から分家して、その南側(尊徳誕生の地)に一家を創建立した時、造ったものと思われます。祖父の分家は、寛保2年(1742)と推定されるので、約二百数十年を経過した家です。転売、移築を重ねながら農家の住宅として使用されてきましたが、現在でも主な木材は手入れを要しない程堅固です。
尊徳の父利右衛門が祖父銀右衛門から家督を譲られた安永6年(1777)の二宮家の所有田畑は、2町3反6畝(約23,400m2)もありました。このことを考えてみると、当時の二宮家は、この地方の中流の農家であって、この家屋は、足柄平野の中流農家の住宅の典型といえます。 (「建造物・二宮尊徳生家 – 小田原市」より)]
「二宮尊徳誕生の家 – Google Map 画像リンク」「尊徳記念館 – Google Map 画像リンク」
カメラ東方向左の家が二宮尊徳生家で、右に二宮尊徳誕生之地碑が建っています。
二宮尊徳像前のカメラで、左方向に二宮尊徳生家、カメラ南方向が尊徳記念館です。