化粧井戸跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第二 戸塚ヨリ小田原マデ」(コマ番号12/19)
絵図をスクロールして、右端に花水川が描かれています、ここから左が大磯でその左方向に「ごんげん」と記述されています。これが「高来神社」で、その右下に「かうらい寺」と記述されています、そこが別当寺であった高麗寺になると思います。

  
化粧井戸
[「化粧」については、高来神社との関係も考えられるが、伝説によると鎌倉時代大磯の中心は化粧坂の付近にあった。当時の大磯の代表的女性「虎御前」もこの近くに住み朝な夕なこの井戸水を汲んで化粧をしたのでこの名がついたといわれている。]

(Google Map 画像)

虎御前
[虎御前(とらごぜん、安元元年(1175年) – ?)は、鎌倉時代初期の遊女。曾我祐成の妾。お虎さん、虎女(とらじょ)とも呼ばれる。富士の巻狩りの際に起こった曾我兄弟の仇討ちを描いた『曽我物語』で、この物語を色づけ深みを持たせる役割をしている。『吾妻鏡』にも出てくることから実在した女性とされる。 江戸期に制作された多数の曾我物にも登場し、虎御前の名は広く知られることとなった。
『吾妻鏡』における虎
『吾妻鏡』によると、建久4年(1193年)5月28日に曾我兄弟による仇討ち事件が起こった後、6月1日に曾我祐成の妾である虎という名の大磯の遊女を召し出して訊問したが、無罪だったため放免したと記されており(建久4年6月1日条)、6月18日には虎が箱根で祐成の供養を営み、祐成が最後に与えた葦毛の馬を捧げて出家を遂げ、信濃善光寺に赴いた。その時19歳だったと記されている(建久4年6月18日条)。
『曽我物語』における虎
出自
虎女の出自については諸説あるが、『重須本曽我物語』では、虎女の母は平塚の遊女・夜叉王で、父は都を逃れて相模国海老名郷にいた宮内判官家永だとされている。虎女は平塚で生まれ大磯の長者のもとで遊女になった。
虎の母の夜叉王がいた平塚の遊女宿は現在の平塚市の黒部が丘あたりにあったと言われている。大磯の長者は高麗山の近く(現在の平塚市山下)であるので余り離れた場所ではない。花水川が間にあるが歩いても一時間は掛からない距離関係である。
生涯
十郎祐成と弟の五郎時致は早くから父の仇を討とうと考えていたので妻妾を持つことを考えなかったが、五郎の勧めもあり妾を持つことになった十郎は、自分が死んだ後のことを考え遊女を選んだといわれる。虎と十郎は会ってすぐに恋に落ちる。虎17歳、十郎20歳の時であった。
虎が19歳の年、建久4年(1193年)5月28日に源頼朝が催した富士の裾野での狩りに夜陰に乗じて忍び込んだ兄弟は、父の仇の工藤祐経を討ち取る。しかし、十郎はその場で新田忠常に切り殺され、五郎も生け捕りになった後、頼朝直々に取り調べられて処刑される。
十郎の死後、虎は兄弟の母を曾我の里に訪ねたあと箱根に登り箱根権現社別当の手により出家する。熊野や諸国の霊場を巡りながら兄弟の菩提を弔い、兄弟の一周忌を曾我の里で営んだ。その後兄弟の供養のため信州の善光寺に参り、首にかけた2人の遺骨を奉納した。大磯にもどった後、高麗寺山の北側の山下に庵を結び菩薩地蔵を安置し夫の供養に明け暮れる日々を過ごした事が山下(現、平塚市)に現存する高麗寺の末寺であった荘巌寺に伝わる「荘巌寺虎御前縁起」に記されている。虎女は兄弟の供養を片時も忘れることなく、『曽我物語』の生成に深く関わりながらその小庵で63年と言われるその生涯を閉じる(虎女の生涯は嘉禄3年(1227年)2月13日没、享年53といわれてきたが、最近の研究では没年は嘉禎4年(1238年)とされる)。
国貞筆「美人東海道 大礒之図」
虎が雨の中の虎御前を描いた錦絵。

  (wikipedia・虎御前より)]

カメラ東方向に化粧井戸跡案内板があり、その後ろに化粧井戸跡があります。

化粧井戸跡(Google Map 画像)