国府本郷の一里塚

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第二 戸塚ヨリ小田原マデ」(コマ番号14/19)
絵図右方向にスクロールすると、右端に「一里塚」と記述されています。

  
国府本郷の一里塚
[吾妻鏡によると、奥州藤原氏白河から率土ケ浜までの21日の行程を一里毎に笠卒塔婆を建てたのが初めである。その後時の将軍が管内の里程を定め、一里を36町として、近畿諸国に塚を築きその上にを植え一里塚を築かせたのは織田信長が初めである。その後、徳川氏がこれにならって、1604年(慶長9年)に「諸街道に一里塚を築くこと」と決め、江戸日本橋を道程の測りはじめと定めた。当町の化粧坂の塚、国府本郷の中丸の塚もこの時造られたもので、大磯は江戸から16里率といわれたから、化粧塚は16番目、中丸の塚は17番目のものであった。なお、塚はもとは東海道をはさんで二つ向かい合い、一方を男塚、他方を女塚と呼んでいた。]

国府本郷の一里塚案内板(Google Map 画像)

国府本郷の一里塚 – Google Map 画像リンク

国府本郷の一里塚標柱・案内板前のカメラです。