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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第三 小田原ヨリ三島マデ」(コマ番号3/14)
絵図をスクロールすると、右端「札辻」と記述されています、その道先が濱手口門で、「城」と記述されている道先が「箱根口門」で、「箱根口門」の辻右、二筋目の町内に問屋場があったと思われます。

相州小田原城図 (Wikimedia Commons)
上の問屋場跡
[宿の主要な機能は、公用の旅行者や物資の輸送、通信、これに伴う休憩や宿泊施設の提供でした。その中心的な機能を担う施設が問屋場で、定められた量の人足や伝馬を備えていました。
小田原宿では、中宿町の上の問屋場のほか、高梨町に下の問屋場が置かれていました。
平成29年3月 小田原市教育委員会]
(Google Map 画像)
中宿町(なかじくちょう)
この町は、「貞享三年御引渡記録」(1686 年)に初めて町名が見られます。
「新編相模国風土記稿」(1841 年)には、この町に小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏 5 代(1495〜1590 年))、この町は、「上の問屋場」が置かれ、高梨町の「下の問屋場」と 10 日交代で勤めたとあります。
町内には、御用商人の「小西家」があり、嘉永年間(1848〜53 年)には、脇本陣(わきほんじん:本陣の予備にあてられた街道の宿舎で、本陣にあきのない時に大名などが利用した旅館)1 軒、旅篭が 11 軒ほどありました。
なお、天保初期(1830 年代)、町内の戸数は 30 軒でした。 (「城下町・宿場町 おだわらの町名・地名 町人地 – 小田原市」より)]
カメラ位置は間中病院前で、カメラ南東方向に上の問屋場跡碑が設置されています。