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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第二 戸塚ヨリ小田原マデ」(コマ番号19/19)
絵図「札辻」右の次の筋が甲州街道で青物町になります。その辻右下方向に下の問屋場があることになります。

相州小田原城図 (Wikimedia Commons)
下の問屋場跡
[宿の主要な機能は、公用の旅行者や物資の輸送、通信、これに伴う休憩や宿泊施設の提供でした。その中心的な機能を担う施設が問屋場で、定められた量の人足や伝馬を備えていました。
小田原宿では、高梨町の下の問屋場のほか、中宿町に上の問屋場が置かれていました。
平成29年3月 小田原市教育委員会]
(Google Map 画像)
高梨町(たかなしちょう)
[この町は、藩主稲葉氏の「永代日記」、承応 3 年(1654)の記事に初めて町名が見られます。
「新編相模国風土記稿」(1841 年)をみると、町内に「鎌倉屋敷」という小町があり、小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏 5 代(1495〜1590 年))からの大商人鎌倉屋の持地があったためと伝えているので、古くから商家や旅篭がならんでいたようです。町の中央寄りには、「下の問屋場(人足や馬による輸送の取り次き所)」があり、中宿町の「上の問屋場」と 10 日交代で勤めていました。
なお、天保初期(1830 年代)、町内の戸数は 58 軒でした。 (「城下町・宿場町 おだわらの町名・地名 町人地 – 小田原市」より)]
「下の問屋場跡 – Google Map 画像リンク」「旧町名保存碑 高梨町(たかなしちょう) – Google Map 画像リンク」
カメラ南東方向、自販機の右に下の問屋場跡案内板があります。
カメラ南南東方向に旧町名保存碑(高梨町)があります。