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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第三 小田原ヨリ三島マデ」(コマ番号4/14)
絵図右方向にスクロールすると右端付近に「蕃所」と記述されています。

板橋(上方)口
[戦国時代の末期、小田原北条氏は東海道をも取り込み、城下の外周を土塁や空堀で囲んで防御する壮大な総構(大外郭)を築きました。
この辺りは、東海道に対応する小田原城外郭の西側の出入り口が設けられていた場所です。江戸時代においても、この口から内側は 城下府内の山角町、外側は板橋村で、遠くは京都に通じたので、板橋口または上方口と呼ばれ、東に設けられた山王(江戸)口と並ぶ 最も主要な出入り口として、厳重な構造をもっていました。
現在の国道1号線はそのまま直進していますが、かつての東海道は板橋口をでると一度北に折れて、再び西に曲がっており、 その地形は旧道としてよく残されています。
板橋(上方)見付
見付(みつけ)とは、近世城郭の城門のことを言います。「見付」には、【発見する】【見張る】の意味があり、城門に面する所に番所を設け、 人々の通行を監視したことから、このように呼ばれました。また、主要街道の宿場の出入り口も見付と呼ばれるようになります。
板橋(上方)見付は城下の西端にあり、南北に横たわる小田原城総構(大外郭)の城壁に、東海道が東西に交差して開かれた地点に位置します。 ここには板橋(上方)口矢来門がたてられ、出入り口周辺の土塁は特に石垣で厳重に補強されていました。また、東海道もこの土塁などの地形に 沿ってクランクし、外からは中の様子をうかがうことができなくなっています。矢来門の内側には小田原藩の御番所が設けられ、突棒・指又・袖搦などの 逮捕道具や鑓を並べ、藩士が常番で詰めて通行を監視し、また門の外側(この案内板のたつ現在地付近)にも「尻番所」と呼ばれる番所がありました。
『板橋(上方)口』説明より (「小田原宿 板橋(上方)口(名右衛門)」より)]
(Google Map 画像)
カメラ北東方向に板橋(上方)口案内板があります。