小田原宿 江戸口見附跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第二 戸塚ヨリ小田原マデ」(コマ番号19/19)
絵図右方向にスクロールすると「一里塚 京から百里 江戸から二十里」と記述され、その左に「蕃所」と記述されています。

相州小田原城図 (Wikimedia Commons)

小田原宿 江戸口見附
[小田原北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、 城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。
 この付近は、その総構の最も南部分に当たり、小田原合戦のときには徳川家康隊が山王川の対岸に陣取っていました。
 江戸時代には、小田原城下に入る東海道の東の出入口として、西の板橋口及び甲州道の井細田口とあわせて、城下を警護する 重要な門としての役割を担っていました。
 江戸方面から来た場合、上図(文久図)のように門の土塁を一旦右に曲がり さらに左に折れてから城下に入る形になっています。また、入るとすぐ右手(北側)には番所があり、通行人の監視などに 当っていました。
 なお、ここは江戸日本橋から20里(80km)に位置し、それを示す一里塚が海寄りに設けられていました。
『小田原宿 江戸口見附』説明より  (「小田原宿 江戸口見附(名右衛門)」より)]

(Google Map 画像)

江戸口見附跡 – Google Map 画像リンク

カメラ西北西方向に小田原宿 江戸口見附跡案内板があります。