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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第二 戸塚ヨリ小田原マデ」(コマ番号19/19)
絵図左端に「札辻」と記述されています。そこの右下一筋目と二筋目の中間に清水金左ヱ門本陣があることになります。

清水金左ヱ門本陣跡
[小田原宿には、東海道五十三次のうち江戸から20里(約80Km)の距離にある、品川から数えて9番目の宿です。
箱根越えを控えたことなどから、多くの大名や旅行者が宿泊し、東海道中でも大変規模が大きく、本陣、脇本陣、高札場。問屋場など、宿としての機能が整えられていました。天保年間(1830~1844)当時、小田原宿には4軒の本陣、4軒の脇本陣、95軒の旅籠がありました。
このうち、清水金左ヱ門本陣跡と片岡永左ヱ門本陣跡は、明治天皇が全国巡幸のおり宿泊していたことから、それぞれ「宮の前行在所」、「本町行在所」として小田原市の指定史跡となっています。
清水金左ヱ門本陣は、尾張徳川家や薩摩の島津家、熊本の細川家など、西国の有力な大名が定宿としていました。また、明治元年(1868)の東京遷都や全国巡幸の折、明治天皇も5回にわたり宿泊しています。
清水氏は、戦国大名北条氏の家臣で、伊豆下田城主を務めた家の子孫と伝わっており、江戸時代にも小田原宿の町年寄など重要な役割を担いました。]
(Google Map 画像)
宮前町(みやのまえちょう)
[この町は、「北条氏康朱印状」(1566 年)に初めて町名が見られます。この頃、この町は「上町」、「下町」に分かれていたと伝えられていますが、その区分けは明らかではありません。
江戸時代には、東海道に面した町の西側に城主専用の出入り口である「浜手門」と「高札場(こうさつば:幕府の法令などを掲示する揚所のこと)」があり、同時代末期、町内には、本陣(ほんじん:街道の宿揚に置かれた大名、公家、幕府役人などのための旅館) 1 軒(大清水)、脇本陣(わきほんじん:本陣の予備にあてられた街道の宿舎で、本陣にあきのない時に大名などが利用した旅館)2 軒、旅篭が 23 軒ほどあって、隣の本町とともに小田原宿の中心でありました。
なお、天保初期(1830 年代)、町内の戸数は、 42 軒でした。 (「城下町・宿場町 おだわらの町名・地名 町人地 – 小田原市」より)]
「清水金左衛門本陣跡 – Google Map 画像リンク」
カメラ南方向に宮前町の碑が設置され、その左後方に清水金左ヱ門本陣跡案内板が設置されています。