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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第三 小田原ヨリ三島マデ」(コマ番号3/14)
絵図を右にスクロールすると、「札辻」と記述され、その下に高札が描かれています。その左下、一筋目と二筋目の中間に 片岡本陣があることになります。

小田原宿 片岡本陣跡
[小田原宿には4軒の本陣があり、片岡本陣もその一つです。伊予(愛媛県)松山の松平家などの大名が定宿としていました。幕末の当主片岡永左ヱ門は明治時代には小田原町の要職を歴任し、当時の貴重な記録を数多く残しています。
平成29年3月 小田原市教育委員会]
(Google Map 画像)
本町(ほんちょう)
[この町は、藩主稲葉氏の「永代日記」、承応 2 年(1653)の記事に初めて町名が見られます。
「新編相模国風土記稿」(1841 年)をみると、小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏 5 代(1495〜1590 年))、この町は、「通小路」といわれていましたが、江戸時代前期にこの町を基準にして、城下の町人町を左右に町割りしたとき、「本町」と改められました。隣の宮前町とともに、小田原宿の中心で、江戸時代末期には、本陣 (ほんじん:街道の宿場に置かれた大名、公家、幕府役人などのための旅館)2 軒(窪田・松本・・・・のち片岡))、脇本陣(わきほんじん:本陣の予備にあてられた街道の宿舎で、本陣にあきのない時に大名などが利用した旅館)2 軒、旅篭が 26 軒ほどありました。
この町と宮前町との境にある「市場横町」には、宿内の魚座商人(魚商人の同業組合)の市がたち、魚座屋敷がありました。
なお、天保初期(1830 年代)、町内の戸数は 41 軒でした。 (「城下町・宿場町 おだわらの町名・地名 町人地 – 小田原市」より)]
カメラ南南西方向に片岡本陣跡碑があります。
カメラ南西方向に旧町名保存碑(本町)があります。