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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第三 小田原ヨリ三島マデ」(コマ番号11/14)
絵図右スクロールすると「山中」と記述されています。

山中城
[山中城(やまなかじょう)は、静岡県三島市山中新田(伊豆国田方郡山中)にある中世の日本の城(山城跡)で、国の史跡に指定されている。
概要
北条氏によって築城され、小田原城の支城として位置づけられる。箱根十城のひとつ。
三島市によって当時を反映した整備改修がなされ、堀や土塁などの遺構は風化を避けるため、盛土による被履の上芝を張って保護し、畝堀や障子堀の構造が明確に把握できるように整備されており北条氏の築城方法を良く知ることのできる城跡となっている。
また、北条氏滅亡と共に廃城となったため、北条氏独特の城郭の構造を多く残していることが注目される。
2012年まで、5月の第三日曜日に山中城まつりが開催されていた。(現在は中断)
歴史
永禄年間(1558年 – 1570年)に北条氏康により築城される。北条氏の本拠地である小田原の西の防衛を担う最重要拠点で、城は東海道を取り込む形で造られていた。
北条氏政の代に豊臣秀吉との関係が悪化すると、山中城は改修し防備を固めることになるが、結局間に合わず未完成のまま豊臣軍を迎える。1590年(天正18年)、小田原征伐で豊臣秀次率いる6万8千の軍勢が山中城を攻撃、守将は北条氏勝、松田康長、松田康郷、蔭山氏広、間宮康俊ら3千。間宮康俊は寄親北条氏勝等を撤退させて自らは手勢200を率いて三ノ丸~岱崎出丸辺りで豊臣方に苛烈に抗戦した為に、豊臣方も部将の一柳直末など多くの戦死者を出した。しかし戦力差甚だしく猛烈な力攻めの結果わずか半日で落城し、北条方の松田・間宮などの武将や城兵の多くが討死した。戦後、城は廃止された。
1930年(昭和9年)に国の史跡に指定された。1973年(昭和48年)から三島市が公園として整備をはじめ、合わせて学術的な調査もなされた。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(40番)に選定された。
障子掘・wikipedia-photo、岱崎出丸と畝堀(復元)・wikipedia-photo (wikipedia・山中城より)]
山中城案内図(「日本百名城 山中城 登城・見学地図 ツツジやスイレン – 三島市」より)]

「山中城址 – Google Map 画像リンク」「山中城 天守台跡 – Google Map 画像リンク」「箱井戸跡 – Google Map 画像リンク」「田尻の池 – Google Map 画像リンク」「山中城 元西櫓跡 – Google Map 画像リンク」「山中城 西の丸見張台 – Google Map 画像リンク」「山中城 西櫓跡 – Google Map 画像リンク」「山中城 岱崎出丸跡 – Google Map 画像リンク」
カメラ北方向が山中城門跡で、右道が旧東海道です。
山中城 元西櫓跡
山中城 二ノ丸跡
山中城 本丸跡
山中城 天守台跡
山中城 岱崎出丸跡