山角天神社

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第三 小田原ヨリ三島マデ」(コマ番号3/14)
絵図の「城」と記述される、道が箱根口と思われます。そこの左方向鳥居が描かれています、そこが山角天神社と思われます。

山角(やまかく)天神社
[[社頭掲示板]
土地の人から「天神さん」と呼ばれ、親しまれている天神社は、名前の通り「菅原道真」を祭神とした神社で、創業時代は古く不明である。
この地には古くから威徳山長教院三光寺と号す古義真言宗の寺院があって、一時衰えていたものを後北條時代永禄四年(一五六一)、僧秀山によって、天神社の別当寺として中興されたといわれ、その後、再び衰え廃寺となってしまった。この天神社には、もと三光寺の什宝であった菅原道真画像がある。
この画像は俗にいう怒り天神といわれる姿である。作者は不祥であるが、室町時代北條氏康によって奉納されたという優秀な作品であり、小田原市の重要文化財に指定されている。
なお、境内には「紀軽人狂歌碑」や芭蕉句碑がある。  (「神社検索/天神社 – 神奈川県神社庁」より)] 

[絵画・紙本着色 菅原道真画像 (市指定 昭和45年12月15日)
所有 南町1-5-37 天神社
形状 紙本着色 軸装 縦63.8cm 横38.8cm 表装 上下中廻し金襴(きんらん)
概説
この画像は、菅原道真の束帯姿の坐像で、元は三光寺の寺宝でした。
この寺は、古義真言宗で創建は古く、一時衰えていたものを戦国時代の永禄4年(1561)に秀山(永禄12年卒)によって天神社の別当寺(神社に付属して置かれた寺)として中興されたと思われます。その後、明治維新神仏分離以後、再び衰えて廃寺となりました。その際、他の寺宝と共にこの画像も近接の居神神社に移されました。その後、また、天神社に戻りました。
絵は、綱巻天神の形式で筆勢があり、優秀ですが、作者は不明です。
道真公の顔は、怒りの様相を示していて、俗に言う「怒りの天神」の姿です。おそらく永禄4年(1561)北条氏康が文運興隆祈願のために天神社を祭った時、別当寺に奉納した画像と思われます。軸の裏書に寛文12年(1672)に表装を修復したことが記されていますが、画面には手を加えられた跡はありません。  (「絵画・紙本着色 菅原道真画像 – 小田原市」より)]

[山角町(やまかくちょう)
 この町は、寛永 14 年(1637)の文書に初めて町名が見られます。
 町名の由来は、「新編相模国風士記稿」(1841 年)によると小田原北条氏家臣「山角氏」(北条早雲駿河へきたときに同行した武士の一人で、北条氏の歴代に仕えた重臣の一 族)の屋敷があったためとしています。
 町内には、小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱氏康氏政氏直の北条氏 5 代(1495〜1590 年))から畳職人、屋根職人の頭などが多く住んでいたと伝えられています。東海道筋の西から武家屋敷が並ぶ「御厩小路(おうまやこうじ)」、「天神小路(てんじんこうじ)」が南へ延びています。
 なお、天保初期(1830 年代)、町内の戸数は 88 軒でした。  (「城下町・宿場町 おだわらの町名・地名 町人地 – 小田原市」より)]

山角天神社 – Google Map 画像リンク

山角天神社参道前のカメラです。

山角天神社拝殿(Google Map 画像)

芭蕉句碑(Google Map 画像)

句碑案内板(Google Map 画像)

カメラ北東方向に旧町名保存碑(山角町)があります。(Google Map)