平塚宿江戸見附跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第二 戸塚ヨリ小田原マデ」(コマ番号11/19)
絵図右方向にスクロールすると、「ごんげん(※平塚八王子神社)」右方向から「明神」手前まで松並木が描かれています。松並木左端が平塚宿江戸見附跡になると思います。

平塚宿江戸見附跡
[JR平塚駅北口から北へ歩くと直ぐに旧東海道だった「東海道本通り」に出る。商店街として賑わうこの道を左(小田原方面)へと行くと平塚市民センターのところに江戸方見付跡の碑が立っている。かっての平塚宿は江戸方見付より西側に位置していた。
平塚宿内の東海道の街道沿いには民家が立並び、その長さは九町五間(約1km)、道幅は四間一尺(約7m)から六間(約11m)ほどあったと云う。宿内は江戸方から十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町と続いていた。 残念ながらこの江戸方見附跡は単なるモニュメントで、実際の江戸見付は市民センターの西(大磯)側にあったようだ。  (「東海道散歩: 平塚宿 – 事事関心!」より)]

[平塚宿と加宿平塚新宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附がありました。
 本来、見附は城下に入る門を示す「城門」のことをいい、城下に入る人々を監視する見張り場の役目を持ちました。 したがって、宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を守る防御施設として設置されたことがうかがえます。 また、見附は必ずしも宿境(宿境は傍示杭で示す)を意味するものではなく、見附から正式に宿内であることを示す 施設でした。さらに、宿と宿の間の距離は、この見附を基準としました。
 平塚宿の見附は2箇所。一般に江戸側の出入り口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼びました。 この2箇所の見附の間が平塚宿内で、町並みは東西に14町6間(約1.5キロメートル)、東から十八軒町・二十四軒町・ 東仲町・西仲町・柳町の5町で構成され、その中に本陣脇本陣、東・西の問屋場2箇所、高札場、旅籠などがあり、 江戸時代を通して200軒を超える町並みが続きました。
 一般的に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が 組まれていました。
 平塚宿江戸見附は、長さ約3.6メートル、幅約1.6メートルの石垣を台形状に積み頂部を土盛りし、東海道に対して 直角に対をなし、両側の見附は東西に少しずれた形で設置されていました。
『平塚宿の江戸方見附』説明より  (「平塚宿 江戸方見附跡(名右衛門)」より)]

平塚宿江戸見附跡案内板(Google Map 画像)

平塚宿江戸見附跡 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向に平塚宿江戸見附跡モニュメントと案内板・標柱があります。