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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第二 戸塚ヨリ小田原マデ」(コマ番号11/19)
絵図右方向「平塚 札辻」と「ごんげん(※平塚八王子神社)」の間、東海道の上側に平塚宿脇本陣があったと思われます。

平塚宿脇本陣跡
[平塚宿脇本陣は、天保期(1830~1843) 山本安兵衛が営み、宿内二十四軒町の北側に建坪七十三坪を持っていた。 ところで、享和年代(1801~1803)作成の「東海道分間延絵図」によれば、当時の脇本陣が宿内西仲町北側、西組問屋場より西の位置に記載されており、天保期の脇本陣の位置とは違っていたようだ。 (「東海道散歩: 平塚宿 – 事事関心!」より)]
[平塚宿 脇本陣
江戸時代、それぞれの宿場には幕府公用人や大名を泊める宿舎として本陣が設けられていました。この本陣の補助的な役目をしたのが、脇本陣です。脇本陣には、その宿場の中で本陣に次ぐ有力者が経営しましたが、屋敷地や建物の大きさは本陣に及びませんでした。また、脇本陣は本陣と違って、平常時は一般の旅籠としての営業も可能でした。
平塚宿の脇本陣は、享和年間(一八〇一~〇三)頃の宿場の様子を描いた「東海道分間延絵図」には、西組問屋場より西に描かれていますが、天保年間(一八三〇~四四)には二十四軒町の北側のこの地に山本安兵衛が営んでいました。
平成十三年(二〇〇一)三月
平塚市 (「ocr-generated @WAWA – Monumento(モニュメント)」より)]
平塚宿脇本陣跡案内板(Google Map 画像)
カメラ西方向に平塚宿脇本陣跡の標柱と案内板があります。