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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第三 小田原ヨリ三島マデ」(コマ番号5/14)
絵図右に三枚橋が描かれ、右方向にスクロールすると、絵図中央付近に「やまざき」と記述されています。

山崎ノ古戦場跡
[慶応四年(一八六八)五月二十六日に起こった、幕府遊撃隊と小田原藩を先鋒隊とする官軍との交戦の場に建てられた碑。「戊辰戦争山崎の戦い」と呼ばれている。この一戦で、遊撃隊長の伊庭八郎は小田原藩士高橋藤太郎との一騎打ちに及んで左手を失い、高橋は討ち死にした。 (「箱根宿1 – 関東地方整備局」より)]
[伊庭八郎は、5月15日彰義隊が上野戦争を始めるとこれに呼応。新政府軍の江戸入りを阻止するため、箱根の関所を抑えようと小田原藩兵と戦闘となった。一時は和睦が成立したものの、26日再び敵対した小田原藩と箱根山崎で戦いが起こり、湯本の三枚橋付近で足に被弾。更に背後から小田原藩士・高橋藤五郎(鏡心一刀流)に左手首の皮一枚を残して斬られる中、八郎は振り向きざま下方から首へ心行刀流剣認識の一突きで相手を絶命させている。八郎は従者の阪本鎌吉に担がれその場から味方陣地の早雲寺へ逃れる。左腕は途中から先を切断。切断面から二寸程の骨が飛び出ていた八郎は「とんと痛かねえやい」と小刀ですっぱり削り落としたと生き残った阪本が証言。以後、左手は不自由となりながら戦い抜く。
箱館に到着後、旧幕軍役職選挙で、歩兵頭並、遊撃隊隊長となった。箱館戦争では徹底抗戦を主張し、隻腕でありながらも遊撃隊を率いて奮戦したが、木古内の戦いで胸部に被弾した。箱館病院で治療を受けていたが、当時の医療では為す術は無く、致命傷となった。箱館撤退の際に傷病者が搬送された湯の川ではなく、五稜郭に入ることを希望。虫の息となっても痛いとは一言もいわなかったが、開城の前夜に榎本武揚の差し出したモルヒネを飲み干して自決した。享年26。 遺体はほかの戦死者とともに五稜郭内(一本松の土饅頭)に埋葬された。 (wikipedia・伊庭八郎より)]
「箱根 山崎ノ古戦場 跡石碑 – Google Map 画像リンク」
カメラ北北東方向に戊辰戦争・山崎ノ古戦場跡碑があります。