押切坂

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第二 戸塚ヨリ小田原マデ」(コマ番号15/19)
絵図に、「一里塚 江戸から十八里 京から百二里」と記述され、その左方向切通が描かれている場所が押切坂になります。

  
押切坂
[在地 – 二宮町山西 (旧東海道)
目印  中村川(押切川)の“押切橋”交差点を100m北東方向に進み、東北東方向に上る坂
坂の特徴 坂の方向・北東から東北東方向に曲がり上る。
長さ  160m
斜度  上り始めはかなり急であり、坂上に近づくと緩やか(高低差12m,平均斜度4.3度)
形態  “へ”の字状に曲がる
標識  無し
由来 他  「てくてく東海道」に「松屋本陣跡」「押切坂」が紹介されている。
 坂上側に設置されている説明板には次のように書かれている。
     松屋本陣の跡
 江戸幕府の交通政策によって東海道が整備されたことや,参勤交代制などにより,江戸~上方間を往来する人々は増え,旅人の宿泊所,休憩所も街道の随所に設けられました。
 このあたりは,大磯宿と小田原宿の中間に位置し,大磯宿~小田原宿の距離が十六キロメートルと長い上,押切坂,酒匂川を手前に控えていることから,間の宿(あいのしゅく)として休憩所が設けられ,大友屋・蔦屋・釜成屋など多くの茶屋や商店が軒を並べ,「梅沢の立場」と呼ばれて,大変賑わっていました。
 その中心的存在となっていたのが「松屋本陣」であり,参勤交代の諸大名・宮家・幕府役人など,特権階級にあたる人達の休憩所に指定されていました。「松屋」であった和田家には,本陣を利用した人々の記録である「御休帳」が保存されていて,二宮町指定重要文化財になっています。
          平成十七年十二月
                二宮町教育委員会  (「profile/押切坂」より)]

旧押切坂(旧東海道) – Google Map 画像リンク」「茶屋旧道路傍の道祖神 – Google Map 画像リンク

カメラ」南東方向が押切坂です。

カメラ東北東方向右坂が旧東海道、このページの押切坂で、左が現東海道の押切坂です。