接待茶屋跡・接待茶屋一里塚跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第三 小田原ヨリ三島マデ」(コマ番号10/14)
絵図中央に「此遍ん かれき坂と云」と記述され、右下に「一里塚 京から九十五里 江戸から二十五里」の記述されていますが「一里塚」の記述は間違いのようです。接待茶屋一里塚は京から九十四里 江戸から二十六里で、絵図右スクロールした「此遍ん 石原坂」の右方向になります。「石原坂」の右には「伊豆 相模 堺」、「池」と記述され、芦ノ湖が描かれています。また、wikipedia・東海道の一里塚一覧では「江戸から二十五里の一里塚」は「なし」になっています。

  
接待茶屋跡地
[三島小田原間の箱根八里は東海道随一の難所として知られています。その道中、山中新田と箱根宿の間の現在「施行平」と呼ばれる所に、行き交う人馬のための無料の休憩所「接待茶屋」(施行所とも呼ばれる)がありました。
文政七年(1824)、江戸の豪商加勢屋與兵衛(かせや・よへえ)は箱根の西坂と東坂に1カ所ずつ接待茶屋を設置しました。その後、中山道碓氷(うすい)峠和田峠にも設置し、合計四カ所となります。與兵衛は二千両の基金を設け、その貸付け利子で接待茶屋を運営しました。しかし、年月が経つに従い返済が滞り資金を得られなくなったため、西坂の接待茶屋は三十一年後の安政二年(1855)に閉鎖されてしまいます。
山中新田から箱根宿までは距離が長い上に休憩施設も少なかったため、人や荷物の輸送に携わる人馬にとって接待茶屋は一息入れることができる貴重な場所でした。そのため、閉鎖の事情を理解できない馬が接待所のあった場所に通りかかると、以前と同様に立ち止まって歩こうとせず、見るに忍びない様子だったそうです。また、この時点では東坂の接待茶屋が存続していたため、三島宿側だけが閉鎖されたのは不公平だ、という不満も出ていたようです。
そこで、三島宿が周辺の村々と協力して接待茶屋を継続することにしました。しかし、やってみると年間六・七十両もの経費がかかり、財政が窮乏していた三島宿では数年間しか継続させることができなかったようです。三島宿などの宿場町やその周辺の村々は、街道での公的な人や荷物の運搬を無料または低賃金で請け負わなければなりませんでした。幕末になるに従い東海道の交通量は増大し、その負担により三島宿の借金も増大してとても接待茶屋の運営まで資金を回すことができなかったようです。
箱根東坂・和田峠・碓氷峠の三カ所の接待茶屋も幕末から明治初頭までに閉鎖されます。西坂では文久二年(1862)と文久四年に山中新田の組頭(村役人)で接待茶屋の実際の運営に深く関わっていた津田政右衛門を中心に再興が計画されますが、失敗に終わりました。
ただし、西坂については明治十二年に農村改良運動が元となった宗教団体である八国性理教会(はちこくせいりきょうかい)によって再興され、最後は個人経営になりながら昭和四十五年まで続けられました。その名残は現在でも「接待茶屋」というバス停の名前に見ることができます。
大正時代の接待茶屋

  (「(第371号)箱根西坂の接待茶屋(平成31年4月1日号) – 三島市」より)]

[山中の集落を出て箱根峠の頂を目指す。約720mに渡って延びる願合寺地区の石畳から、小枯木坂・大枯木坂を登り、次に続く石割坂(石原坂・石荒坂)を登りきったところが、箱根峠を往来する旅人や馬の救済にあたった接待茶屋跡。隣接して山中一里塚が現存しているが、接待茶屋こそ今は無い。ここから”かぶと石坂”を登りきれば、かつてイバラが生い茂る草原だった茨ヶ平で、間もなく箱根峠の頂に着く。  (「箱根旧街道 小枯木坂・大枯木坂・石割坂・かぶと石坂・箱根峠」より)]

接待茶屋一里塚跡 – Google Map 画像リンク

カメラ北西方向が「接待茶屋」バス停です。

カメラ西南西方向旧箱根道右に接待茶屋案内板と接待茶屋一里塚(山中一里塚)があります。(江戸から26里の一里塚・国の史跡)

接待茶屋一里塚(Google Map 画像)

接待茶屋一里塚(Google Map 画像)

接待茶屋案内板(Google Map 画像)