マーカーは旧東海道石畳・天ヶ石坂口です。
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第三 小田原ヨリ三島マデ」(コマ番号8/14)
絵図中央下に「此遍ん 八町坂(※権現坂)と云」と記述され、そこの左に「此遍 がいし(?蓋石)なげと云」と記述されています。

旧東海道石畳・天ヶ石坂(てんがいしざか)口
[急坂の7間(13m)の部分を天ヶ石坂と呼ぶ。道の右に坂名の由来となった天蓋石と呼ばれる8尺(2.4m)四方の巨石がある。この石は畑宿と箱根宿の境の目印にもされていた。 (「天ヶ石坂(東海道 – 小田原~箱根) – 旧街道ウォーキング – 人力」より)]
[白水坂は徐々に角度を増し、現存する石畳の中では一番の急角度を持つ「天ケ石坂」となる。
坂を上りきり、平坦な道を息が整う程度歩を進めると、「箱根八里は馬でも越すが」の歌い出しでお馴染みの「箱根馬子唄」の大きな石碑が立つ広場に出る。
目の前に見える四つの頂を持つ山が箱根のシンボル二子山。
小田原方面から見ると2つのピークに見えるが、「表二子に裏四ツ子」という言葉があるように、ここからは向かって左「上二子」、右「下二子」にそれぞれ2つずつの頂が見える。この頂部をよく見ると、ごつごつとした岩肌が露頭していることに気が付く。この山は江戸時代から二子石という安山岩が産出する石切り場であった。箱根東坂の石畳にもこの二子石が敷かれている。 (「箱根宿2 – 関東地方整備局」より)]
[白水坂の石碑から更に続く急坂を登ること7分、右側に大きな石が現れる。その石の傍らに天ヶ石坂の石碑が建っていて、『天ヶ石坂 登リ七間餘』と刻まれていた。
「大岩」から3分登ると、石だたみについての説明板が立っている。
【石だたみについて】
江戸時代の初め、それまで尾根伝いを通っていた湯坂路に替わり、須雲川に沿った谷間の道が東海道として整備されました。整備した当初は箱根に群生するハコネダケという細い竹を毎年敷き詰めていたようです。しかし、大変な費用と労力がかかることから、延宝八年(1680年)、石を敷いた石だたみの路になりました。その後、江戸時代末期の文久二年(1863年)、十四代将軍徳川家茂が京都に上洛する際、全面的に改修されました。
なお、この箱根旧街道は昭和三十五年(1960年)、国の史跡に指定されています。
神奈川県
程なく下り坂になった右手に小さな広場があり、箱根馬子唄の歌碑とニ子山についての説明板が立っている。
歌碑には『箱根八里は馬でも越すがこすに越されぬ大井川』と刻まれている。
【二子山について】
二子山は、駒ヶ岳、神山、台ヶ岳などとともに中央火口丘の一つで箱根の火山活動のうち一番最後に出来たものです。頂上付近にはハコネコメツツジと呼ばれる富士火山帯特有のツツジ類を始め、サンショウイバラやキワザクラ、ヒメイワカガミなどが育成していて自然状態が良く残されています。
現在は保護のため入山を禁止しております。
神奈川県 (「旧東海道12回目(箱根東坂)」より)]
東海道五十三次 箱根 保永堂版 湖水図(wikipedia-photo)
[多彩な色と奇抜な形の組み合わせによって描かれた、広重の傑作中の傑作である。「天下の険、千尋の谷」と唄われた箱根の峠越えの厳しさをとらえた、圧倒的な量感に溢れた山の描写は、他の版図を凌駕している。山間の細く急な坂道を一列になって下っていく大名行列。モザイクのような色合いで、極端にデフォルメされた山は、急な勾配をもって芦ノ湖へ反り出す。遠景には真っ白に雪化粧した富士が美しく浮かび上がる。広重のこのあまりにも実景とかけ離れた描写は、江戸の庶民に驚きをもって受け入れられ、人気を博したことは想像に難くない。 (「東海道五拾三次之内 11 箱根《湖水図》 文化遺産オンライン」より)]
「旧東海道石畳 – Google Map 画像リンク」「旧東海道石畳 – Google Map 画像リンク」「休憩広場 – Google Map 画像リンク」
カメラは天ヶ石坂手前、白水坂のカメラです。
旧東海道維持管理案内板(Google Map 画像)
天ヶ石・坂碑(Google Map 画像)
天ヶ石坂碑(Google Map 画像)
休憩広場(Google Map 画像)
箱根馬子唄碑(Google Map 画像)
二子山案内板(Google Map 画像)