旧東海道(箱根旧街道)割石坂・接待茶屋跡

ストリートビューの初期設定位置は旧東海道(箱根旧街道)割石坂口前です。
地図上のアイコン上でマウスクリックし、アイコン移動すると、移動アイコン位置にストリートビューが存在すれば地図下のストリートビュー画面が、その位置のストリートビューに表示変更されます。また、ストリートビュー画面で移動すると地図上のアイコンも移動します。

国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第三 小田原ヨリ三島マデ」(コマ番号7/14)
絵図右方向にスクロールすると、絵図中央付近に「此遍ん わり石と云」と記述されています。

旧東海道(箱根旧街道)割石坂
[「割石坂」が終わり県道に合流する所に接待茶屋の説明板が当時の写真付きで掲げられている。
【接待茶屋】
 江戸時代後期、箱根権現の別当如実は、箱根八里を往還する旅人や馬に湯茶や飼葉を施し大変喜ばれていましたが、資金が続かず行き詰まってしまいました。
 如実は、江戸呉服町の加勢屋与兵衛らの協力を得て施行の断続を幕府に願い出、文政7年(1824)ようやく許可がおりました。
 再開にあたって新しく設置する施行所を畑宿と須雲川に希望していましたが、2か所とも立場であるため許可されず、東坂は割石坂のこの辺に、西坂は施行平に設置されました。
     箱根町  (「旧東海道12回目(箱根東坂)」より)]

[三島小田原間の箱根八里は東海道随一の難所として知られています。その道中、山中新田と箱根宿の間の現在「施行平」と呼ばれる所に、行き交う人馬のための無料の休憩所「接待茶屋」(施行所とも呼ばれる)がありました。
文政七年(1824)、江戸の豪商加勢屋與兵衛(かせや・よへえ)は箱根の西坂と東坂に1カ所ずつ接待茶屋を設置しました。その後、中山道碓氷(うすい)峠和田峠にも設置し、合計四カ所となります。與兵衛は二千両の基金を設け、その貸付け利子で接待茶屋を運営しました。しかし、年月が経つに従い返済が滞り資金を得られなくなったため、西坂の接待茶屋は三十一年後の安政二年(1855)に閉鎖されてしまいます。
山中新田から箱根宿までは距離が長い上に休憩施設も少なかったため、人や荷物の輸送に携わる人馬にとって接待茶屋は一息入れることができる貴重な場所でした。そのため、閉鎖の事情を理解できない馬が接待所のあった場所に通りかかると、以前と同様に立ち止まって歩こうとせず、見るに忍びない様子だったそうです。また、この時点では東坂の接待茶屋が存続していたため、三島宿側だけが閉鎖されたのは不公平だ、という不満も出ていたようです。  (「(第371号)箱根西坂の接待茶屋(平成31年4月1日号) – 三島市」より)]

旧東海道(箱根旧街道)割石坂 Google Map 画像リンク

カメラ北方向が畑宿村側の旧東海道(箱根旧街道)割石坂口です。