松屋本陣跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第二 戸塚ヨリ小田原マデ」(コマ番号15/19)
絵図に、「一里塚 江戸から十八里 京から百二里」と記述され、その左方向に松屋本陣があることになります。

  
松屋本陣
[江戸幕府の交通政策によって東海道が整備されたことや、参勤交代制などにより、江戸~上方間を往来する人々は増え、旅人の宿泊所、休憩所も街道の随所に設けられました。 このあたりは、大磯宿小田原宿の中間に位置し、大磯宿~小田原宿の距離が16キロメートルと長い上、押切坂、酒匂川を手前に控えていることから、間の宿(あいのしゆく)として休憩所が設けられ、大友屋・蔦屋・釜成屋など多くの茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、大変賑わっていました。
 その中心的存在となっていたのが「松屋本陣」であり、参勤交代の諸大名・宮家・幕府役人など、特権階級にあたる人達の休憩所に指定されていました。「松屋」であった和田家には、本陣を利用した人々の記録である「御休帳」が保存されていて、二宮町指定重要文化財になっています。
 松屋が茶屋本陣として本格的に機能し出したのは、宝永期(1704~1711)になってからで、その規模は本宿の本陣には劣るとはいうものの、天保12年(1841)の松屋は間口7間半(13・7m)・奥行15間1尺(27・5m)余、畳数104畳の広さを待っていました。
 文久3年(1863)の将軍家茂上洛に際しては御小休所に指定され、上洛御用の旗を掲げて諸大名の接待にあたりました。  (「東海道五十三次、間の宿ニ宮」より)] 

松屋本陣跡案内板(Google Map 画像)

葛飾北斎『富嶽三十六景』より『相州梅沢左』

松屋本陣跡 – Google Map 画像リンク

カメラ南東方向に松屋本陣跡案内板が設置されています。