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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第三 小田原ヨリ三島マデ」(コマ番号6/14)
絵図右方向にスクロールすると、「一里塚 京から九十八里 江戸から二十二里」と記述され、その右に「ゆもと」と記述されています。その右「S」字カーブの右側に正眼寺があると思われます。

正眼寺
[正眼寺は、湯本地蔵堂の別当を勤めていた勝源寺(創建年代不詳)を起源とするといい、仇討ちで有名な曽我兄弟を弔う曽我堂も地蔵堂の側に建立されたといいます。江戸時代に入り、江戸の材木問屋冬木屋の援助を得て再建、早雲寺を中興した菊径宗存(寛永4年寂)を迎えて臨済宗寺院として開山したといいます。
●新編相模国風土記稿による正眼寺の縁起
(湯本村)正眼寺
大本山と號す、臨済宗早雲寺末。本尊薬師、長一尺五寸餘、運慶作。開山菊径宗存、寛永四年六月二十一日卒、本寺中興の僧なり。境内に石燈臺一基あり、高六尺、銘に早川庄湯坂勝源寺燈籠、應永二年乙亥十月十九日別當云々の数字を彫れど、全く其頃の物とはみえず。
地蔵堂。放光堂の額をかく、閻魔の像をも安ず、正眼寺持、下同。
曽我堂。本尊三尊弥陀、左右に立像の地蔵、各長五尺二寸程、を置く。是を曽我兄弟の像と云、又其碑を置。祐成、高崇院峯岩良雪居士、建久四年五月廿九日と記す。
垂絲櫻。堂の傍にあり、圍九尺程、樹下に芭蕉の發句を彫し碑あり。(新編相模国風土記稿より)
●境内掲示による正眼寺の縁起
正眼寺は、鎌倉時代箱根山に広まっていた地蔵信仰の中で生まれた寺です。創建年代は定かではありませんが、この寺の前身である湯本地蔵堂の別当寺として鎌倉前期には存在し、その頃は勝源寺と呼ばれていました。戦国時代には一時衰微しましたが、江戸時代になりますと、江戸屈指の材木問屋冬木屋の援助により諸堂を再建され、また、小田原城主大久保氏より境内地・地蔵田が安堵され、復興されました。再興開基には早雲寺一七世菊径宗存を招請し、この時より当寺は臨済宗大徳寺派に属す禅寺となり、今日に至っています。(境内掲示より)
●境内掲示による曽我堂の縁起
建久四年(一、一九三)五月二八日富士裾野で父の仇工藤祐経を討ち本懐を遂げた曽我五郎十郎の菩提供養のため、兄弟の親類縁者によって兄弟が仇討成就を願って祈念参籠したといわれ、湯本地蔵堂の近くに曽我堂が建立されました。
その創建年代は明らかでありませんが江戸時代初期に修復された記録がありますので、それ以前に遡ることは確かです。江戸時代東海道箱根八里の沿道にあったこの堂の地蔵菩薩像は曽我歌舞伎の流行とともに曽我兄弟の化粧地蔵と呼ばれ、街道を行く旅人の信仰をあつめました。
明治元年(一、八六八)曽我堂は戦火にあい焼失しましたが、幸いにも両像は戦火を脱れました。大正三年(一、九一四)曽我堂は松竹歌舞伎の関係者によって再建され、昭和六十一年には台床光背を失っていた両像の修理が実施され元の御姿を拝することができるようになりました。(境内掲示より)
●石造大地蔵
小田原城種稲葉氏の菩提寺、長興山紹太寺にあったもの、慶應四年(一八六八)焼失した当寺の地蔵菩薩像の身代わりとして招聘されたものです。(境内掲示より) (「正眼寺。足柄下郡箱根町にある臨済宗大徳寺派寺院 – 猫の足あと」より)]
[正眼寺は、慶応四年(一八六六)の戊辰戦争時、「山崎の戦い」において敗走する遊撃隊に放火され焼失した。現在の本堂は昭和七年(一九三二)、湯本湯場にあった今村繁三(今村銀行頭取)の別荘を移築したもので、明治期の別荘建築を知るうえでも貴重なものであるといえる。 (「箱根宿1 – 関東地方整備局」より)]
カメラ東南東方向が正眼寺参道です。
正眼寺本堂(Google Map 画像)
正眼寺曽我堂(Google Map 画像)
正眼寺石造大地蔵(Google Map 画像)