マーカーは箱根旧街道石畳(腰巻地区)です。
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第三 小田原ヨリ三島マデ」(コマ番号11/14)
絵図右スクロールすると「山中」と記述されています。

箱根旧街道石畳(腰巻地区)
[芝切地蔵の直ぐ先で国道を横断すると再び旧街道の石畳が続く。国道を渡って直ぐ左側に、山中新田(山中城跡)の『夢舞台・東海道』標柱が立っている。
標柱には『三島宿(宿境まで一里三十五町) ← 三島市 山中新田(山中城跡) → 函南町(宿境まで九町)』と書かれている。
標柱の所から左に上る階段があり、この上も山中城の曲輪が幾つかある。
階段の下の石畳道に旧箱根街道・腰巻地区の説明板が立っている。
【旧箱根街道】 腰巻地区の石畳復元・整備
『箱根旧街道は、慶長九年(1604)江戸幕府が整備した五街道の中で、江戸と京都を結ぶ一番の主要街道である東海道のうち、小田原と三島宿を結ぶ、標高八四五mの箱根峠を越える箱根八里(約三ニkm)の区間である。
この旧街道には、通行の人馬を保護する松や杉の並木が作られ、道のりを正確にするための一里塚が築かれた。またローム層の土で大変滑りやすい道なので、やがてその道に竹が敷かれたが、延宝八年(1680)頃には石畳の道に改修された。
三島市は貴重な文化遺産である石畳の活用を図るため、この「腰巻地区」約三五〇mの区間を、可能な限り江戸時代の景観を保って、平成六年度(1994)に復元・整備した。
発掘調査の結果、石畳幅二間(約三・六m)を基本とし、道の両側の縁石は比較的大きめの石がほぼ直線的に並ぶように配置され、基礎は作らずローム層の土の上に敷き並べたもので石材はこの付近で採石したものと思われる。扁平に剥離する安山岩を用いていた。
調査の結果を基に、管理のための下部基礎を設け、下図のように、石畳がよく残っていた所約六〇mの間は、江戸時代の石を元の位置に戻して復元し、石畳の少なかった所や全くなかった所約ニ九〇mの間は、江戸時代の石に加え、神奈川県根府川町で採石した安山岩を補填した。
また排水路として、ここより上方の願合寺地区石畳に出ているものと同様の「斜め排水路」を二ヵ所作った。
平成十一年三月 三島市教育委員会』 (「旧東海道13回目(箱根東坂)」より)]
箱根旧街道石畳(腰巻地区)案内板(Google Map 画像)
「箱根旧街道石畳(腰巻地区) – Google Map 画像リンク」
カメラ南西方向が箱根旧街道石畳(腰巻地区)で、手前左の階段は山中城 岱崎出丸跡への出入り口です。
箱根旧街道石畳(腰巻地区)(Google Map 画像)