箱根関所

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第三 小田原ヨリ三島マデ」(コマ番号9/14)
絵図左下に「当蕃所」と記述されています。

  
箱根関所
[箱根関(はこねのせき)は、かつて箱根にあった関所である。一般には、江戸幕府によって元和5年(1619年)から明治2年(1869年)まで、相模国足柄下郡箱根(現・神奈川県箱根町箱根)の芦ノ湖湖畔に設置された東海道の箱根関所(はこねせきしょ)を指す。
箱根山には箱根関所を中心として根府川(小田原市)・仙石原(箱根町)・矢倉沢(南足柄市)・川村・谷ケ(共に山北町)の6か所に関所が設置されていた。
江戸幕府と箱根関所
近世の箱根関所の起源は不明である。しかし、元和4年(1618年)頃には既に箱根の宿駅であることから、この時期に箱根関所も設置されたものとされている。
箱根関所の設置
後北条氏滅亡後、関東には徳川家康が入り、後に江戸幕府を開いた。幕府は須雲川沿いに新道(「箱根八里」)を設置してこれを東海道の本道として整備して、箱根神社の側に関所を設置したが、地元(元箱根)住民との対立を惹き起こした。そのため箱根峠寄りに人工の町である「箱根宿」を、元箱根側の芦ノ湖畔に箱根関所を設置した。
箱根関所は一時期を除いては原則的には、相模国足柄下郡及び箱根山を挟んで接する駿河国駿東郡を支配する譜代の大藩小田原藩が実際の管理運営を行っていた。 東海道は江戸と京都・大坂の三都間を結ぶ最重要交通路とされた。
関所の構造
箱根関所を設置した地点は、東北に屏風山があり、西南に芦ノ湖があり、中央に東海道が通った。道の両側には縦64メートル、横13メートルの空き地があった。
両門の間は約18メートルで、関門の左右の石垣・関所の礎石は残っている。建造物は上御番所・番士詰所・休息所・風呂場からなる「面番所」、所詰半番・休息所・牢屋からなる「向番所」、厩、辻番、高札場などが設置され、柵で囲まれていた。また、関所裏の屏風山には「遠見番所」、芦ノ湖南岸には「外屋番所」が設置され、周囲の山林は要害山・御用林の指定を受けていた。そこを通過して関所破り(関所抜け)を行おうとした者は厳罰に処せられたのである。 
箱根関所の平面図 

(拡大図・Wikimedia Commons)

関所道具類
箱根関所には常備付の武具として弓5・鉄砲10・長柄槍10・大身槍5・三道具1組(突棒・刺股・袖搦各1)・寄棒10が規定されていた。が、ほとんどが旅人を脅すためのもので、火縄銃に火薬が詰めておらず、弓があっても矢が無かったなどのことが分かっている。
箱根関所の番士
貞享3年(1686年)の小田原藩の職制によれば、箱根関所は番頭1・平番士3(以上侍身分)・小頭1・足軽10・仲間(中間)2(以上「足軽」身分)・定番人3・人見女2・その他非常用の人夫から構成された。後に番頭を補佐する者として侍身分の横目1名が追加された。侍・足軽身分の者は小田原藩士であり、侍は毎月2日、足軽は毎月23日に小田原城から派遣されて交代で勤務した。定番人・人見女は箱根近辺の農民から雇用して幕府が手当の肩代わりを行い、人夫は主として駿東郡などの小田原領民があたった。
根府川・矢倉沢・川村・仙石原・谷ヶ村の五関所は、箱根関所と同じく、小田原城主が管理していた。
箱根関と東海道・脇往還

箱根関所の検問
箱根関所の通過の際、検問するに事柄は、『諸国御関所覚書』に示され、時間は明け6つから暮れ6つまでと規定されて、夜間通行は原則禁止された。
関西方面から江戸へ向かう者は特に検閲がなかった。逆に、江戸から上方へ向かう婦女子や乱心者、手負者、囚人、首、死骸等の反乱の原因になりうるものは、留守居の証文、夜間通行には老中証文や宿場問屋の断書が必要であった。道中奉行支配下の街道にあった新居関所(今切関所)気賀関所碓氷関所福島関所などの関所の通過には、箱根関所同様に一定の証文が必要であった。
入鉄炮出女
「入鉄炮に出女」に象徴される厳重な監視体制が採られた。後に、寛永年間に同じ東海道の今切関所との役割分担が定められ、今切が江戸に入る鉄砲(入鉄炮)を監視し、箱根が江戸から出る女性(出女)を監視する任務を主とするようになった。
箱根関所の特徴は、武具の検問をしないで通行を許可しており、鉄炮手形が無い場合でも通行は差支えないが、手形持参の場合は形式上検問して通行を許可していたという。『御関所御規定心得方書記』によると、「鉄砲手形が無い場合でも通行は差し支えないが、手形持参の場合には、一応形式上でだけ検閲して通行を許可」するものであった。そのため、箱根関所には、差し出された鉄砲手形が残されている。
関所廃止
幕末慶応の改革の段階で簡単な検問機能のみに縮小されていた。
明治2年(1869年)には明治政府が諸国の関所を全廃した時、箱根関も廃止された。
箱根関跡は大正11年(1923年)、国の史跡とされた。
浮世絵シリーズ『東海道名所風景』より (Wikimedia Commons)

2007年3月に復元された箱根関所・wikipedia-photo、復元高札場・wikipedia-photo  (wikipedia・箱根関より)]

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」 – 「箱根駅 箱根湖水 西河原地蔵堂 5巻 45p

[図会左ページ下に箱根湖水、そこの左方向・東海道が湖水に面する位置が塞の河原、右ページ上に箱根の関所、箱根宿が描かれています。]

箱根関所資料館 – Google Map 画像リンク」「関所通り – Google Map 画像リンク」「箱根関所 – Google Map 画像リンク」「箱根関所 京口千人溜まり – Google Map 画像リンク」「箱根関所 遠見番所 – Google Map 画像リンク

遠見番所からのカメラです。

江戸口側のカメラです。

箱根関所内のカメラです。

上方口のカメラです。