茨ヶ平石畳入口・甲石坂

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第三 小田原ヨリ三島マデ」(コマ番号10/14)
絵図中央に「此遍ん かれき坂と云」と記述され、右下に「一里塚 京から九十五里 江戸から二十五里」の記述されていますが「一里塚」の記述は間違いのようです。接待茶屋一里塚は京から九十四里 江戸から二十六里で、絵図右スクロールした「此遍ん 石原坂」の右方向になります。「石原坂」の右には「伊豆 相模 堺」、「池」と記述され、芦ノ湖が描かれています。また、wikipedia・東海道の一里塚一覧では「江戸から二十五里の一里塚」は「なし」になっています。

  
茨ヶ平石畳入口
[旧道入口左側に茨ヶ平の説明板、その隣に木の道標が立ち、右側に石の道標が建っている。
 木の道標には、右へ『三島宿 11Km』、左へ『箱根関所跡 3Km』。石の道標の右面には『是より江戸 二十五里』、左面には『是より京都 百里』と刻まれていた。
【箱根旧街道・茨ヶ平】
 『慶長九年(1604)江戸幕府は江戸を中心として、日本各地へ通じる五街道を整備した。中でも江戸と京都・大阪を結ぶ東海道は一番の主要街道であった。
 この東海道のうち最大の難所は、小田原宿と三島宿を結ぶ、標高八四五mの箱根峠を越える箱根八里(約三二Km)の区間であり、箱根旧街道とよばれる。
 ローム層の土で大変滑りやすい道なので、最初は箱根竹(メダケ)の束を敷いたが延宝八年(1680)に、幅二間(約三・六m)の石畳に改修された。
 その他街道整備として風雪をしのぐための並木敷や、道のりを一里ごとに示す一里塚がつくられた。
 参勤交代伊勢参りなど、江戸時代の旅が一般的になるとともに賑わった旧街道も、明治二十二年(1889)東海道線の開通や、大正十二年(1923)国道一号線の敷設によって衰退した。
 このあたりは、い茨が生い茂っているので付近の草原を茨ケ平という。
     平成十一年三月 三島市教育委員会』  (「旧東海道13回目(箱根東坂)」より)]

[山中の集落を出て箱根峠の頂を目指す。約720mに渡って延びる願合寺地区の石畳から、小枯木坂・大枯木坂を登り、次に続く石割坂(石原坂・石荒坂)を登りきったところが、箱根峠を往来する旅人や馬の救済にあたった接待茶屋跡。隣接して山中一里塚が現存しているが、接待茶屋こそ今は無い。ここから”かぶと石坂”を登りきれば、かつてイバラが生い茂る草原だった茨ヶ平で、間もなく箱根峠の頂に着く。  (「箱根旧街道 小枯木坂・大枯木坂・石割坂・かぶと石坂・箱根峠」より)]

箱根旧街道・茨ヶ平案内板(Google Map 画像)

旧東海道 茨ヶ平 – Google Map 画像リンク

カメラ南方向が茨ヶ平石畳入口になり、入口前に案内看板がります。

甲石坂・箱根竹(メダケ)に覆われた石畳(Google Map 画像)