酒匂川の渡しの碑

ストリートビューの初期設定位置は酒匂川の渡しの碑前です。
地図上のアイコン上でマウスクリックし、アイコン移動すると、移動アイコン位置にストリートビューが存在すれば地図下のストリートビュー画面が、その位置のストリートビューに表示変更されます。また、ストリートビュー画面で移動すると地図上のアイコンも移動します。

酒匂川の渡しの碑
[場所 – 神奈川県小田原市西酒匂1丁目
コメント 
JR東海道本線鴨宮駅から南に1.2km。
酒匂川に架かる国道1号(東海道)の橋(酒匂橋)の北詰から 50mほど川上(北西)に遡ったところに,自然石に「酒匂川の渡し」と書かれた,自然石に金属プレートを貼りつけた大きな石碑が建っている。
酒匂川(さかわがわ)は,富士山の東南麓が主な源流で,JR御殿場線の東半分と並走する形で流れ,丹沢と箱根の間を抜け,足柄平野を南下して小田原市で相模湾へと注く。
江戸時代,酒匂川には橋がなく,旅する人は川越し人足によって川を渡してもらわなければならなかった。
古くは渡し舟によっていたが,江戸時代の初期に 江戸防衛上の理由により舟渡しは禁止され,徒歩渡しに限られた。このため水量が増える夏場には 川越人足の助けを借りて渡った。この制度は 1871(明治4)年に廃止された。
なお,碑には 広重の「東海道五十三次」の「小田原」の図が添えられているが,写真が不鮮明なので 別途公開されているカラー写真(画像リンク)を下に示す。この酒匂川の渡しが描かれている。
碑文
酒匂川の渡し
 酒匂川の渡しは,東海道五十三次道中の難所の一つで,古くは船渡しが行われていたが,延宝二年(1674)船渡しが禁止され徒渉(かちわたり)制が施行され,冬の時期を冬川と言い仮橋を架けて往来したが,夏の時期は夏川と称し橋を架けないので必ず手引・肩車・輦台(れんだい)など有料で川越人足の力を借りて渡らなければならなかった。この制度は明治四年(1871)に廃止された。  (「酒匂川の渡し 碑」より)]

酒匂川の渡しの碑文(Google Map 画像)

川会所
[近世の街道で、橋や渡船の設備のない大井川、安倍(あべ)川、酒匂(さかわ)川などで、川越(かわごし)の事務を行った役所。東海道の川会所は、宿場問屋場と同じく幕府道中奉行(ぶぎょう)の支配下にあり、会所の役人は、大井川川会所では、取締、川庄屋(しょうや)、年行事頭取(としぎょうじとうどり)、年行事小頭(こがしら)がおり、その下に実際に業務を行う川越人足がいた。酒匂川では、1789年(寛政1)幕府道中奉行より、夏秋の季節で仮橋のない期間は歩行渡しとなるが、旅人が直接川越人足と交渉して川越を頼むので、手間どって渋滞し、賃銭も不同で不当な渡し賃をとる者もいるとして、今後は川会所がすべてを取締り世話するよう命ぜられている。川会所の費用は、川越賃銭の刎銭(はねせん)による場合、伝馬宿(てんましゅく)費用から出す場合などがあった。
[川名 登]
『田村栄太郎著『江戸時代の交通』(1970・雄山閣出版)』  (「川会所とは – コトバンク」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第二 戸塚ヨリ小田原マデ」(コマ番号18/19)
絵図右方向にスクロールすると、「佐川」と記述されています。「佐川」が酒匂川のことです。

歌川広重画『東海道五十三次 小田原 酒匂川』(wikipedia-photo)

広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)小田原 酒匂川かち渡し』(wikipedia-photo)

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 十 五十三次 小田原 酒匂川」(wikipedia-photo)

『東海道五十三次細見圖㑹 小田原』、「道中風俗 川ごし前後をあらそふ」 (Wikimedia Commons)

葛飾北斎『東海道五十三次』(東海道五十三次-葛飾北斎 画[他]-歴史画報社.pdf) – 小田原

酒匂川の渡しの碑 – Google Map 画像リンク

酒匂川の渡しの碑西側のカメラです。

酒匂川の渡しの碑(Google Map 画像)