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「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で1896~1909年地図で明治39年の相模川の流れがわかります。
馬入の渡し跡
[江戸時代、幕府は大きな河川に橋をかけることを禁止しました。そのため、相模川(馬入川)や多摩川(六郷川)は「渡し船」、酒匂川は「徒歩(かち)渡し」などとなっていました。
相模川には60以上の渡し場がありました。大動脈である東海道は「馬入の渡し」と呼ばれ、幕府が管理し、周辺村々の負担によって成り立っていました。当初、船は須賀村だけで用意していたようですが、元禄5年(1692年)に対岸の柳島村(注:茅ヶ崎にある地名)が加わりました。また、渡船賃の徴収などを扱う川会所」の運営や船頭の確保は、馬入村など5ケ村が務め、また川会所や渡船額などの情報を掲示する「川高札」は馬入村にありました。
渡し船には「小舟」と「馬船」がありました。小舟は人を乗せる船で定員20人ほど、馬船は大型で馬が荷物を積んだまま横向きに乗ることのできる船です。このほかに、将軍や大名用の「御召船」などが常時用意されていました。また将軍の上洛など特別の大通行があった場合、幕府は「船橋」を架けさせました。
平成16年(2004年)3月 平塚市 (「馬入橋。馬入の渡し跡碑。馬入の一里塚。(茅ヶ崎から平塚 …」より)]
馬入の渡し跡案内板(Google Map 画像)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第二 戸塚ヨリ小田原マデ」(コマ番号10/19)

関東大震災前の相模川河口。(wikipedia-photo)
広重画『東海道五十三次之内(行書東海道)平塚 馬入川舟渡の圖』(wikipedia-photo)
『東海道五十三次(狂歌入東海道)平塚 馬入川渡舟』 「大磯へ いそぐえき路の すヾのねに いさむ馬入の 渡し船かな 芦原満邦」 (Wikimedia Commons)
『五十三次名所図会 八 平塚』、馬入川舟渡し大山遠望 (Wikimedia Commons)
カメラ南東方向に馬入の渡し跡碑と案内板があります。
馬入の渡し跡碑(Google Map 画像)