ストリートビューの初期設定位置は馬入渡川会所跡碑前です。
地図上のアイコン上でマウスクリックし、アイコン移動すると、移動アイコン位置にストリートビューが存在すれば地図下のストリートビュー画面が、その位置のストリートビューに表示変更されます。また、ストリートビュー画面で移動すると地図上のアイコンも移動します。
川会所
[近世の街道で、橋や渡船の設備のない大井川、安倍(あべ)川、酒匂(さかわ)川などで、川越(かわごし)の事務を行った役所。東海道の川会所は、宿場の問屋場と同じく幕府道中奉行(ぶぎょう)の支配下にあり、会所の役人は、大井川川会所では、取締、川庄屋(しょうや)、年行事頭取(としぎょうじとうどり)、年行事小頭(こがしら)がおり、その下に実際に業務を行う川越人足がいた。酒匂川では、1789年(寛政1)幕府道中奉行より、夏秋の季節で仮橋のない期間は歩行渡しとなるが、旅人が直接川越人足と交渉して川越を頼むので、手間どって渋滞し、賃銭も不同で不当な渡し賃をとる者もいるとして、今後は川会所がすべてを取締り世話するよう命ぜられている。川会所の費用は、川越賃銭の刎銭(はねせん)による場合、伝馬宿(てんましゅく)費用から出す場合などがあった。
[川名 登]
『田村栄太郎著『江戸時代の交通』(1970・雄山閣出版)』 (「川会所とは – コトバンク」より)]
馬入渡川会所跡碑
[川会所は、江戸時代に川越を取り締まった役所で川役所とも言いました。
川会所には川役人(川名主と年寄)が在勤し、川の深浅を計り、川留・川明を決めたり、渡船の管理や渡賃の徴収などを行っていました。通行人は渡賃を払って、川越をしていました。元禄3年(1690)当時の旅人一人の渡賃は10文でした。
馬入の川会所は、間口一間半、奥行二間ほどの家で、馬入川渡し場の西川端にありました。馬入の渡しには渡船が常備されていて、定掛り村が須賀と柳島村、定助郷村が馬入村ほか4ヶ村、加助郷村が田端村ほか10ヶ村で、それぞれの村々が渡しの業務の負担をしていました。 (「川会所跡説明」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第二 戸塚ヨリ小田原マデ」(コマ番号10/19)

関東大震災前の相模川河口。
カメラ東北東方向に馬入渡川会所跡碑と案内板があります。