東海道絵図は「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第十 土山ヨリ京マデ」よりダウンロードして利用しています。
本絵図は正確な東海道絵図では現存、最古のもので、天和初年(一六八一)頃作成の絵図である。その測量は延宝期に幕府が実施したと考えられこの原図をもとに手書き・彩色して作成された実測図で、方位・距離が正確に表現された絵図(分間絵図)である。本絵図は巻子本(巻物)十巻に収められ、幅五四センチ・全長一四八メートル余の長大な手書き絵図であり当時の東海道が詳細に把握できる。
この絵図が、通常の東海道の起点・終点となる江戸日本橋から京都三条大橋までではなく、江戸城大手門から京都の二条城までを描いていることからみて、この測量が民間で行われたのではなく幕府の直轄事業として実施されたものと考えられる。 (1−東海道絵図集成H− 全二巻)より
元図「コマ番号 10/23」リンク
絵地図初期設定画面左下に「志ぶ谷越五条のわかれ いまぐま観音ヘノ道 石二言付」と御陵中内町(五条別れ)道標が記述され、その右方向に「あんぜうじ(安祥寺)」「日蓮宗 ごこく寺(護国寺)」「山科」と記述、その右上に「もろは大明神(諸羽神社)」と記述されています。絵地図をスクロールすると「十禅寺」、「四乃宮(京都市山科区四ノ宮神田町)」、「よこぎ(大津市横木)」と記述され、絵地図接続部端に「伏見海道」、「京海道」と追分が描かれ、その右に「せつ志う院(摂取院)」、「ひうちがむれ(火打村)」と記述されています。
[上火打町・下火打町
[現在地名]大津市大谷町(おおたにちよう)
元一里(もといちり)町の西に続く片側町で、寛保二年町絵図では東より上火打町・下火打町と連なる。「輿地志略」に上・下両町名がみえ、火打権現社がある故の町名という。また追分(おいわけ)町・大谷町などとともに算盤を製して売っていたとあり、安政元年(一八五四)には算盤業者二軒があった(片岡文書)。 (「上火打町・下火打町(読み)かみひうちちよう・しもひうちちよう – コトバンク」より)]
元図「コマ番号 10/24」リンク
絵地図初期設定画面左上に「東ぶんき町(東山区東分木町)」、「小物座町(東山区西小物座町、東山区東小物座町)」、「谷川町(東山区谷川町)」と記述されています。「谷川町」の下に「どんどはし」、「びくに坂」、「六間町」、「神明町」、「神明町」右に「神明ヘノ道」と日向大神宮への道筋が記述され、そこの下方向が蹴上の茶店になると思います。「神明町」の下に「九たい町(九体町)」と記述され右下に「山ノ本二 けあげの水 石仏あり」と記述されています、石仏とは日ノ岡夷谷町の大日如来のことではないかと思います。絵地図をスクロールすると「ひのおか(京都市山科区日ノ岡坂脇町)」と記述され、その右に「一里塚 江戸から百十九里 京から一里」と御陵一里塚が表示されています。一里塚下に川が描かれていて、一里塚の位置は坂脇橋付近ではないかと思います。その右に「御びやう野(京都市山科区御陵下御廟野町)」、「やふ乃下(藪ノ下)」と記述され、その右に「こぜき越 川の中を行(江戸時代初期の小関越、川は安祥寺川のことだろうか ? )」、右下に「志ぶ谷越五条のわかれ いまぐま観音ヘノ道 岩ニ書付」(五条別れ道標)と記述されています。
元図「コマ番号 10/25」リンク
絵地図初期設定画面は京都三条通りの家並が描かれています。絵地図をスクロールすると、中程に三条大橋が描かれ、右上に「浄土宗ほうりん寺(法林寺)」と記述されています。その右方向に「白川はし」と記述され、その下に「知恩院ヘノ道」、その右に「青蓮院御門跡」、「えびす町(夷町)」左の「天王」は粟田神社、その右上「中町(中之町)」との間上に「東山寺ヘノ道(慈照寺(銀閣寺))」、その右に「南禅寺道」と記述されています。
元図「コマ番号 10/26」リンク
絵地図初期設定画面は京都三条通、室町通、二条通の家並が描かれ、左端に二条城が描かれています。