東海道絵図(大津宿)

大津宿(おおつしゅく、おおつじゅく)は東海道53番目(→東海道五十三次)の宿場で、現在は滋賀県大津市。東海道五十三次中最大の宿場。
江戸時代、大津と京都を結ぶ旧東海道の区間では牛車の往来をスムーズにするために道に「車石」と呼ばれる花崗岩の石が敷かれた。明治時代に馬車の利用が進むと車石は撤去され、撤去された車石は石垣などに利用された。  (wikipedia・大津宿より)

東海道絵図は「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第十 土山ヨリ京マデ」よりダウンロードして利用しています。

元図「コマ番号 10/18」リンク

絵地図初期設定画面の「かさぎ(笠置)うら ? 」と記述か所は大津市大江5丁目になります。絵地図右に池(茶屋窪地)が描かれ、右にスクロールすると「一里塚 江戸から百十五里 京から五里」と月輪一里塚が表示されています。その右方向に「月の輪池」が描かれ、その溜池によって開発された「新田」が記述されています。

元図「コマ番号 10/19」リンク

絵地図初期設定画面中央に「水海(琵琶湖)」が描かれ、左下に「あわずの原」(「粟津の晴嵐」碑)と記述され、その左に「一里塚 江戸から百十六里 京から四里」と粟津一里塚が表示され、その左に「兼平塚」と記述されています。一里塚は現在の大津市晴嵐一丁目3、4付近にあったようです。右接続図「方位の印」右に「石山ヘノ道」と石山寺の参道口が記述され、絵地図を右にスクロールすると「と里ゐ村(鳥居村・大津市鳥居川町)」と記述、「小ばし」、「せた大はし」と瀬田の唐橋が描かれ、その左下に「龍宮の宮(勢多橋 龍王宮秀郷社)」、下に「せた(大津市瀬田)」、「たけひ大明神」と建部大社が記述されています。「たけひ大明神」の右方向に「三間や(三軒屋)」と記述されています。

元図「コマ番号 10/20」リンク

絵地図初期設定画面左端に「番所」と膳所城北惣門が記述され、その右方向に「高木」、「はち乃宮(八宮)」の円形の境内は石坐神社になります。そこの右に桝形が描かれ、膳所城前の「龍神社」は現在の和田神社で、その下に「えい志寺(縁心寺・エンシンジ)」、絵地図を右にスクロールすると、鍵の手下の「天王」は篠津神社で、その下「大えん寺」は大養寺(タイヨウジ)のことだと思いますが、この絵地図は天和初年(一六八一)頃作成の絵図で、縁心寺の南方向に移転したのではないかと思います。次の鍵の手左の「若宮」は若宮八幡神社で、鍵の手右の「番所」は膳所城南(勢多口)惣門になります。絵地図右下に「一里塚 江戸から百十六里 京から四里」と粟津一里塚が表示されています。

近江国膳所城絵図 – 国立公文書館 デジタルアーカイブ」(正保城絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図です。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれているほか、城下の町割・山川の位置・形が詳細に載されています。)  

元図「コマ番号 10/21」リンク

絵地図初期設定画面の接続図端に「札辻」、「大津 札辻」と記述され、右接続図「大津 札辻」左に「三井寺ヘノ道」と記述され、右方向に「ゆうせん寺(唯泉寺・ユイセンジ)」、「けいかい寺(華階寺・ケカイジ)」、「げんせう寺(善正寺・ゼンショウジ)」と記述されています。絵地図を右方向にスクロールすると、「せいけん寺(清源寺・セイゲンジ)」、「松本(大津市松本)」、「浄土宗 せうかく寺(成覚寺・セイカクジ)」、「西方寺」と記述され。それらの右に「平野大明神(平野神社)」と記述され、その左に「一里塚 江戸から百十七里 京から三里」と石場一里塚が表示されています。その右水海に「膳所からやばせへ舟渡シ」と石場の渡船場が記されています。絵地図右端には「番所」と膳所城北惣門が記述されています。

元図「コマ番号 10/22」リンク

絵地図初期設定画面中央左上に「大谷(大津市大谷町)」と記述され、その右に「一里塚 江戸から百十八里 京から二里」と走井一里塚が表示され、「薬師寺 はし里井の水」(走井の茶屋)と記述されています。その右に「行基山南圓寺 乃日(の碑・名号碑)」、「山城 近江 堺」と記述され、絵地図をスクロールすると、「山城 近江 堺」の右上に「せミ丸」、この「せミ丸」は蝉丸神社、その下に「あふ坂(大津市逢坂)」、その下に「昔の関所の跡 町屋一家」、その右に「関寺の跡 道心者常念仏」、その上に「山の本に 関清水 石佛あり」と記述され、そこの右上に「関大明神(関蝉丸神社上社)」、「念佛寺」、「きぶねたちぎきのくわんおん(立聞観音・安養寺)」、「せミ丸(関蝉丸神社下社)」、「妙かう寺(妙光寺)」と記述されています。

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