東海道絵図(三島宿)

東海道絵図は「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図 巻第二 戸塚ヨリ小田原マデ[19]」、「東海道絵図 巻第三 小田原ヨリ三島マデ[14]」、「東海道絵図 巻第四 三嶋ヨリ江尻マデ[24]」からダウンロードして利用しています。

元図「コマ番号 3/11」リンク

永地図初期設定画面中央下に「にし山道」と箱根旧街道西坂方面道が記述され、絵地図を右にスクロールすると「浄土宗 そうかんじ寺(宗閑寺)」、「山中(三島市山中新田)」と記述されています。

元図「コマ番号 3/12」リンク

絵地図初期設定画面に「見つや(三島市三ツ谷新田)」、絵地図を右にスクロールすると中程過ぎに「ささ原(三島市笹原新田)」、その上に「一柳監物(一柳直末)石塔」、「一里塚 江戸から二十六里 京から九十四里」と記述され、笹原一里塚(箱根旧街道石畳(笹原地区)・笹原一里塚)が描かれています。
[江戸時代に入ると、一柳直末の子孫の中から、先祖の名声を後世に伝えようとする動きがでてきました。元禄十一年(一六九八)には播磨国(現・兵庫県)小野藩第二代藩主・一柳末礼(すえひろ)が、一柳庵の墳墓を山中新田にある宗閑寺の境内に移しています。これは墳墓が路傍の茶店の背後に位置していたため、祭祀(さいし)が行われなくなることを危惧しての措置だったようです。  (「(第385号)地域の歴史―笹原新田―(令和2年6月15日号)」、「(第335号)一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)とその子孫~一柳庵跡(いちりゅうあんあと)・宗閑寺(そうかんじ) (平成28年4月1日号)」より)]

元図「コマ番号 3/13」リンク

絵地図初期設定画面に「一里塚 江戸から二十七里 京から九十三里」と記述され、錦田一里塚が描かれ、その下に「此塚の上の松 はつねのござ松(初音の御座松)ト云」と「初音ヶ原の松並木」由来松について記述されています。 絵地図を右にスクロールすると「つかはら(三島市塚原新田)」、その左に「禅宗 そうふく寺(宗福寺)」、右に「山の神」と記述されています。「山の神」の右側が「臼転坂」になると思います。絵地図右端手前に「七面大明神」、その左に「一乃山」と記述されています。「一乃山」が「市の山新田(三島市市山新田)」(市山新田(題目坂))と思われます
[市山新田は箱根山の西坂、三ツ谷新田の西隣、塚原新田の東隣に位置しています。元和年間(1615~1624)に村として成立したといい、東海道を通行する旅人相手の商いが盛んでした。地名の由来について、江戸時代成立の地誌『豆州志稿(ずしゅうしこう)』は、箱根路を登る際の最初(一/いち)の野山という意、と記しています。  (「(第391号)地域の歴史 市山新田(令和2年12月1日号) – 三島市」より)]

元図「コマ番号 3/14」リンク

絵地図初期設定画面左上に「三嶋大明神」と記述され、三島宿が描かれています。三嶋大社参道左が三島宿高札場になり、右方向三島宿家並上左から「真言宗 かんほう寺」、「真言宗 薬師院」、「光安寺」、「八まん(守綱八幡神社)、下左から「日蓮宗 本妙寺」、「せうせん寺(成真寺)」、「日蓮宗 妙ぎょう寺(妙行寺)」と記述され、大場川が描かれ、その右に「ほうけう寺(宝鏡院)」と記述されています。絵地図を右にスクロールすると「山の本洞の内に道心者代々住」、「あたご(愛宕坂)」、「一里塚 江戸から二十七里 京から九十三里」と記述され、錦田一里塚が描かれ、その下に「此塚の上の松 はつねのござ松と云」と「初音ヶ原の松並木」由来松について記述されています。

元図「コマ番号 4/3」リンク

絵地図初期設定画面は三島宿で、左端に「浄土宗 里んこう寺(林光寺)」、絵地図を右にスクロールすると「浄土宗 長えん寺(長圓寺)」参道口が描かれ、「大明神」、「三嶋札辻」と記述されています。

元図「コマ番号 4/4」リンク

絵地図を右端迄スクロールすると、絵地図中央に「千貫どい」、その下に「駿河 伊豆 堺」と記述され、その右に「一向宗 せんきょう寺(善教寺)」、「浄土宗 里んこう寺(林光寺)」と記述されています。

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