東海道絵図(原宿・間宿柏原)

原宿(はらしゅく、はらじゅく)は、東海道五十三次の13番目の宿場である。現在の静岡県沼津市にある。
宿場として整備される以前は浮島ヶ原(うきしまがはら、浮島原)と呼ばれ、木曾義仲討伐のために上洛する源義経が大規模な馬揃えを行ったことで知られていた。
宿場は江戸方(東)から大塚町・東町・西町からなっていた。天保12年(1841年)時点では家数387軒、人口1777人だった。1軒の本陣と1軒の脇本陣を有していたが、 天保9年(1838年)には脇本陣が焼失した。問屋場は東町と西町の2か所にあり、半月交代で使用されていたが、やがて東町の問屋場は焼失した。  (wikipedia・原宿_(東海道)より)] 

[東海道五十三次の十三番目の宿駅であった原宿は原宿二町(東町・西町)と大塚町の三町で構成された。中心は原宿二町で現在の西町と六軒町の境に西の見付(西木戸)があり、六軒町は見付外(宿外)家並、原新田は問屋新田と呼ばれ、行政面は原宿の支配下にありました。宿の東には現在の大塚本田と大塚新田の境に東の見付(東木戸)があった。大塚町は原宿二町と原宿を構成するも行政面では独立した町として村方三役(名主・組頭・百姓代)が置かれていました。
問屋新田(原新田) – 東海道が浦街道から移転したのに伴い、原宿の問屋場の商業資本の下に新たな街道沿いに開発、整備された部落で、初期の原の宿(原中宿)はこの附近にあったといわれる。一本松との境附近に一里塚があった。区内に山神社がある。
見付外家並(六軒町) – 原宿西見付の外側の部落で最初、原宿の有力者の下に六人が家を築き、それが六人衆、六軒衆、六軒町と呼ばれていくようになったと言われる。尚明治5年まで部落中心附近に観音寺、部落東端に目眼寺という寺があった。区内には原で一番古い浅間神社・秋葉神社がある。
原宿西町(西町) – 原宿西組とも呼ばれ、原宿東町と共に宿駅の中心をなし、西の問屋場(人馬伝送を取扱う所で、これに携わる人を宿役人という)が置かれ、原宿の郷蔵、高札場、本陣等があった。行政面では西町、東町にそれぞれ村方三役が置かれていた。かつて常休庵があった。区内には安泰山徳源寺(臨済宗)・龍守山昌原寺(日蓮宗)・浅間神社がある。
原宿東町(東町) – 原宿東組とも呼ばれた。東町には東の問屋場、脇本陣等があった。又脇本陣を務めた高田氏の先祖がこの地の一部(大塚町との境附近)に高田町を開いた。区内には海源山西念寺(時宗)・鵠林山松蔭寺(臨済宗白隠派大本山)・山神社がある。
三本松新田(三本松)
三本松の伊勢神明宮内の元禄6年(1693)の庚申塔には駿河郡阿野庄三本松村、亨保3年(1803)には出村字三本松村と記されている。原宿大塚町の宿外の出村として東は今沢村に接し、行政面では大塚町の小字となっていた。往古、清原庵という寺があった。地名は松並木の中にあった三本の老大松に由来するという。  (「原支所-原の歴史 – 沼津市商工会」より)]

東海道絵図は「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第四 三嶋ヨリ江尻マデ」よりダウンロードして利用しています。

元図「コマ番号 4/8」リンク

絵地図初期設定画面左端に「といや新田(問屋新田(原新田)・原新田バス停留所」、その右に「くわんおん寺(観音寺)」と記述され、右方向「方位の印」左上に「とくげん寺(徳源寺)」、右上に「日蓮宗 正光寺(昌原寺)」、その上右端接続図端に「原札辻(浅間神社参道西)」、そこの左に「せいれん寺」と記述され、絵図を右スクロールすると札辻右に「せんげん(浅間神社)」、右下に「時宗 さいねん寺(西念寺)」、「禅宗 せうえん寺(松蔭寺)」と記述され、さらにその右に「長こう寺(長興寺)」、「禅宗 せいぼん寺(清梵寺) 庚申 地蔵堂」、「三本松」と記述されています。「三本松」の家並付近が原宿 東木戸(見付)になります。
[問屋新田(原新田)
東海道が浦街道から移転したのに伴い、原宿の問屋場の商業資本の下に新たな街道沿いに開発、整備された部落で、初期の原の宿(原中宿)はこの附近にあったといわれる。一本松との境附近に一里塚があった。区内に山神社がある。  (「原支所-原の歴史」より)]

元図「コマ番号 4/9」リンク

絵地図初期設定画面左下に「助兵衛新田(沼津市桃里)」、その右に「浄土宗 大つう寺(大通寺)」と記述され、絵地図を右スクロールして中程に「一本松(沼津市一本松)」、右端に「といや新田」と記述されています。
[助兵衛新田(桃里)
遠州より鈴木助兵衛(二代)が元和元年(1615)この地に移住し開拓した。幕府領、文政7年(1824)村民は「開闢地神」の号を贈り碑を建てた。村名は開拓者の名をとる。しかし後に助兵衛という語呂を嫌い、明治41年に当時桃の生産が盛んだった為、桃里と改めた。区内には浅間愛鷹神社・稲荷神社・桜地蔵堂がある。  (「原支所-原の歴史」より)]

元図「コマ番号 4/10」リンク

絵地図初期設定画面左下に「道心者 此所よ里 妙し山原吉」、その右に「かしわ原(富士市西柏原新田)」と記述され、その右に六の舎(六王子神社)、その上に湿原(浮島ヶ原)が描かれています。絵地図を右にスクロールすると「此なミき(並木)の松 むかしの道」と記述されています。

間宿柏原
[東海道をかごや馬に乗った人々が行き交っていた江戸時代、東海道五十三次の吉原宿と原宿の間に間の宿「柏原」がありました。柏原宿があった場所はJR東田子の浦駅の西側あたりで、ここには九軒の茶屋があり、浮島沼でとれたうなぎやなまずの蒲焼を名物に繁盛していました。この九軒の茶屋のうち、大正頃まで営業していたのは酒惣(さかそう)という茶屋一軒でした。  (「うなぎの蒲焼 間の宿『柏原』」より)]

昭和放水路
[昭和放水路は、富士市東部で駿河湾に注ぐように造成された水路で、湛水被害の防除と優良農地造成を目的として、昭和18年(1943)県営沼川沿岸排水幹線改良事業により整備された、延長1,080m(開渠部898m、暗渠部182m)の施設です。
この水路の上流にある富士市東部の浮島沼一帯は、愛鷹山麓の川からの水が流れ込み、沼川を通って吉原湊(現在の田子の浦港)に流れ出ますが、標高差がないため、排水が悪く、たびたび湛水被害が起きていました。
この状態を改善するため、原(現沼津市)の増田平四郎(1807~1892)は、浮島沼の大規模な干拓を計画し、現在の昭和放水路と同じ場所に水干(すいほし)といわれる放水路(全長505m、幅7m)を完成させました。
しかし、放水路は高波によって破壊されてしまい、その後、昭和18年(1943)に同じ場所に造られたのが現在の昭和放水路です。この放水路により浮島沼の湛水被害の防除や農地造成等の役割を果たしています。広沼橋の近くには、この放水路に関わりがある増田平四郎の像、記念碑、説明板が設置されています。  (「東部地域施設概要:昭和放水路 – 静岡県」より)]

元図「コマ番号 4/11」リンク

絵地図初期設定の下に記述される「本よしはら」(元吉原村)は現在の富士市今井になり、「をう乃」は「大野新田」と思われます。集落外れに「石佛」と記述されています。絵地図を右スクロールすると「ひのき新田(檜新田・富士市檜新田)」、「一里塚 江戸から三十三里 京から八十八里」と沼田新田一里塚が記述されています。一里塚右付近が増田平四郎(1807年-1892年)が挑戦した水干(すいほし)といわれる放水路(絵地図は天和初年(1681年) 頃作成したものなので、絵地図には描かれていない)で、その上に湿原(浮島ヶ原)が描かれています。
[愛鷹神社(元吉原・大野新田)
駿河湾に臨む元吉原の大野新田地区に鎮座。江戸初期、東海道の原宿~吉原宿(中吉原)間は距離が長いうえに人家も少なかった。そのため、幕府は該当区間の新田開発を推進、農民を住まわせることで街道の治安維持を図った。こうして生まれた村々のひとつが大野新田で、愛鷹神社は同所の氏神として信奉されてきた。
創建は寛文11年(1671)と伝わる。諸説あるものの、どうやら今井の愛鷹神社から勧請されたようだ。延宝2年(1675)4月の検地帳に「下田2反4畝歩 愛鷹免」、江戸末期の地誌には「愛鷹明神社」とみえ、社領は除地1石9斗2升。明治8年2月に大野新田村の村社に列格、同40年6月に神饌幣帛料供進社となり、昭和37年に字居村上739番地から737番地に遷座した。  (「大野新田 愛鷹神社 – 富士おさんぽ見聞録」より)]

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