東海道絵図(沼津宿)

沼津宿(ぬまづしゅく、ぬまづじゅく)は、東海道五十三次の12番目の宿場である。現在の静岡県沼津市大手町周辺にあった。
本陣3、脇本陣1、旅篭屋55、総戸数1234を数えた。 (wikipedia・沼津宿より)

東海道絵図は「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第四 三嶋ヨリ江尻マデ」よりダウンロードして利用しています。
本絵図は正確な東海道絵図では現存、最古のもので、天和初年(一六八一) 頃作成の絵図である。  (1−東海道絵図集成H− 全二巻)より

元図「コマ番号 4/4」リンク

初期画像下中央に黄瀬川に架かる板橋(現在の黄瀬川橋)、その上に富士の眺望が描かれています。左方向に地名「きせ川」、その左に「真言宗 長をん寺(潮音寺)」と記述されています。潮音寺左方向に沼津藩領境榜示杭(従是西)があることになります。黄瀬川右の「きせ川御神」は智方神社、絵地図を右スクロールすると「八まん(対面石八幡神社)」、「禅宗 とうこう寺(東光寺)」、「せううん」、「ながさわ(清水町長沢)」、「禅宗 志げん寺(秀源寺)」、「禅宗 ほうせん寺(法泉寺)」と記述され、中程右付近に「一里塚 江戸から二十八里 京から九十二里」と伏見一里塚が表示され、右上に「やわた(清水町八幡)」、さらに右方向に「千貫どい」、「伊豆 駿河 界」と記述されています。

元図「コマ番号 4/5」リンク

初期設定画面左上に「此所よ里江尻へ西へ十一里」と記述され、その右絵地図接合部に「沼津 札辻(高札場)」と記述され、右接続図下「沼津 札辻」右方向に「禅宗 れんかう寺」、「三枚ばし」、その右下に「一里塚 江戸から二十九里 京から九十一里」と沼津一里塚が表示され、その上に「山王宮(沼津日枝神社)」、「此所に頼朝公富士乃まきがりの時乃釜あり」と記述されています。絵地図をスクロールすると「志もいしだ(下石田)」と記述され、その上に富士山が描かれ、そこの右方向に「真言宗 長をん寺(潮音寺)」と記述されています。

元図「コマ番号 4/6」リンク

絵地図初期画面左端に「小すわ(沼津市小諏訪)」、「浄うん寺 いんきょ」、「八まん」と記述されています、そこが西間門八幡宮で、参道口右に沼津藩領境榜示杭(従是東)が設置されています。西間門八幡宮は「椿明神の社」と言われていたようで、そこの下に「椿」と記述され、描かれています。その右に「西まかど(沼津市西間門)」、「えんま堂」と記述されています。絵地図を右にスクロールすると「東まかど(沼津市東間門)」、「志やか堂(釈迦堂)」、「石佛」と記述されています。絵地図を右端までスクロールすると沼津宿になります。右下角左下に「一向宗 さいめい寺」の左に「浄土宗 浄うん寺(乗運寺)」、そこの上右から「せんげん」、「禅宗 大せう寺(大聖寺)」、「永めい寺(永明寺)」と記述され、そこの左付近が西口見附になると思います。街道下に「千本松原」と記述、「せんげん」の左上に「日蓮宗 せうれん寺」、絵図右上に「此所よ里江尻へ西へ十一里」と記述されています。
[間門の由来
むかし、この近くの浜辺で閻魔の像が網に掛かりました。像の背に天竺摩伽陀国毘首羯摩作と記されており、村人たちは御堂を建ててまつり、地名をマカダと称しました。
後に、マカドとなまり、間門という字を当てるようになったと伝えられています。
江戸時代に東と西に分かれ東間門、西間門となりました。
しかし、間門という地名は各地にあることから古語に由来するという説もあります。  (「間門 – 沼津市」より)]

元図「コマ番号 4/7」リンク

絵地図中央左に「禅宗 長うん寺(祥雲寺と思われる)」、「今さわ(沼津市今沢)」と記述され、右端に「日蓮宗 れんそう寺(蓮窓寺)」、「松なが(沼津市松長)」と記述され、絵地図を右にスクロールすると「松なが」の右に「日蓮宗 えんせい寺(栄昌寺)」と記述されています。この間に「一里塚 江戸から三十里 京から九十里」と大諏訪松長一里塚があることになりますが絵地図には表示されていません。「日蓮宗 えんせい寺(栄昌寺)」右に「大すわ(沼津市大諏訪)」、「みよう志ん 椿」と記述され、そこの右に「浄土宗せいげん寺(清玄寺)、「小すわ(沼津市小諏訪)」、「浄うん寺 いんきょ」と記述されています。

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