東海道絵図(由比)

由比宿(ゆいしゅく、ゆいじゅく)は、東海道五十三次の16番目の宿場である。現在の静岡県静岡市清水区に位置する。
本陣跡が整備され、由比本陣公園となっている。東海道名主の館(小池家住宅)は、1998年(平成10年)10月9日に、国の登録有形文化財(建造物)に登録された。
また、「名主の館」を含む「由比宿」として、2020年(令和2年)6月19日に文化庁が認定する日本遺産『日本初「旅ブーム」を起こした弥次さん喜多さん、駿州の旅~滑稽本と浮世絵が描く東海道旅のガイドブック(道中記)~』の構成文化財に認定された。  (wikipedia・由比宿より)

東海道絵図は「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第四 三嶋ヨリ江尻マデ」よりダウンロードして利用しています。

元図「コマ番号 4/18」リンク

絵地図初期画面中央左下に「一里塚 江戸から三十七里 京から八十三里」と由比の一里塚が記述され、そこから左が由比宿で、左側に「志とく寺(慈徳寺)」、「禅宗 大ほう寺(大法寺)」、「せいほう寺(正方寺)」、「えいめい寺(延命寺)」と記述されています。右上に「かんざ」と記述され、絵地図を右にスクロールすると「中村」、「かさはま(小字か ? )」、「せぎざわ」、「こがね」と記述されています。「かんざ」が神沢、「せぎざわ」が堰沢、「こがね」が小金とすると、現在の地名に当てはめると、静岡市清水区蒲原神沢静岡市清水区蒲原中静岡市清水区蒲原新田静岡市清水区蒲原堰沢静岡市清水区蒲原小金になりますが、現在地図では蒲原神沢、蒲原堰沢、蒲原中、蒲原小金、蒲原新田、蒲原の順番になり合致していません。
五海道其外分間絵図並見取絵図(東海道分間延絵図_13巻之内3・文化3年(1806)完成)」を見ると神沢村、堰沢村、中村、小金村、蒲原宿の順になっていますので、東海道絵図の「中村」と「せぎざわ」は逆になり、「かさはま(蒲原新田 )」は「こがね」の西側にあることになります。
[1889年(明治22年)10月1日 – 町村制施行に伴い、庵原郡蒲原宿・小金村・中村・堰澤村・神澤村が合併し、蒲原町となる。  (wikipedia・蒲原町より)]

元図「コマ番号 4/19」リンク

「由井 札辻」と記述され、その右上に「えんめい寺(延命寺)」「せいほう寺(正方寺)」「大ほう寺(大法寺)」と記述されています。

元図「コマ番号 4/19」リンク

絵地図初期設定右上に「志をやがま(塩屋窯)」と記述され塩窯が描かれています。絵図を右スクロールすると「今宿(静岡市清水区由比今宿)」と記述、そこの右方向に「まちやはら(静岡市清水区由比町屋原)」、「せんだんのねぎ(栴檀の禰宜 ? ・豊積神社 ? )」、「禅宗 とうげん寺(桃源寺)」、「ふねがしま(舟ケ島・静岡市清水区由比北田)」、「由井 札辻」「八まん」と記述され、由比宿西 桝型に高札が描かれています。
[今川・武田・徳川の争奪戦の舞台となった遠江国では、明応7年(1498)の地震と高波で海辺の塩竃が打ち砕かれたといいます(『静』3-244)。塩づくりが遠州灘沿岸で行われていたとみられますが、湖と海を隔てていた砂州が地震と津波によって崩れ、浜名湖が外洋と直接つながってからは、湖岸の宇布見や山崎(旧雄踏町、現浜松市)でさかんになったことが、天正12年(1584)の年貢勘定帳(『静』4-1722)や同15年の請取書(『同』4-1959)の「塩浜年貢」の記載からわかります。今川
今川氏が長らく本拠とした駿河国では、久能寺が寺領浦で潮を汲んで塩を焼く権利を氏親氏輝義元の3代にわたって保証されています(『静』3-921など)。今川氏に代わって駿河を手中にした武田氏は、天正8年(1580)に早船の造立で奉公した功労として、三保(御穂)大明神(旧清水市、現静岡市)神主に塩竃役を免除していますが、そこには塩竃をもつ32人の名が記されています(『同』4-1306)。  (「静岡県と塩」より)]

元図「コマ番号 4/20」リンク

絵地図初期画面右下に「一里塚 江戸から三十八里 京から八十二里」と西倉沢一里塚が記述されています。そこは間の宿西倉沢(望嶽亭 藤屋)前になります。絵地図を右にスクロールすると「大浪の時此の道上を行く」と、迂回路への分岐道が描かれ、その右方向に「くらさわ(静岡市清水区由比西倉澤由比東倉澤)」、「てらを(由比寺尾)」と記述されています。この浜にも塩釜が描かれています。

元図「コマ番号 4/21」リンク

絵地図初期画面中央左に「此道本道」と記述され、その右に「おきつ川」、「さった(静岡市清水区興津東町)」と記述され、その右に「むかしの道今も風なき時ハ歩行ニテ通ル」と記述され、ここの浜にも塩釜が描かれています。絵地図を右スクロールすると、薩埵峠が描かれ、「大浪の時此上道を行く」、「此下むかし道の おや志らす子志らす(波打ち際を駆け抜ける際に親は子を忘れ、子は親を顧みる暇がなかったことから親知らず・子知らず)」と記述されています。

    東海道絵図(蒲原)    東海道絵図(興津宿)