白須賀宿(しらすかしゅく、しらすかじゅく)は、東海道五十三次の32番目の宿場である。現在の静岡県湖西市白須賀。遠江国最西端で、且つ、現在の47都道府県でも静岡県最西端の宿場町である。西の加宿境宿で売られていた柏餅は、白須賀宿の名物として有名だった。
元々は海岸近くにあったが、宝永4年(1707年)に発生した宝永地震と津波により大きな被害を受けたため、その後潮見坂の上の高台にある現在地に移された。天保年間の記録では旅籠が27軒と、宿場としては中規模である。
宿場が廃止された後の1889年に白須賀町が成立、1955年に湖西町(現在の湖西市)に編入された。
明治の東海道本線敷設では、東の新居宿(静岡県湖西市新居町)から白須賀宿へ至る潮見坂の勾配が蒸気機関車運転の障害となり、浜名湖沿岸の鷲津経由となったため、街の発展はなく、現在も一部に当時の家並みや面影を残している。 (wikipedia・白須賀宿より)]
東海道絵図は「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第七 浜松ヨリ赤坂マデ」よりダウンロードして利用しています。
東海道絵図は天和初年(一六八一) 頃作成の絵図で、正確な東海道絵図では現存、最古のものである。 (1−東海道絵図集成H− 全二巻)より
その為、白須賀宿は宝永4年(1707年)に発生した宝永地震と津波により大きな被害を受け、高台に移転する前の絵図になり、白須賀宿は海岸線に描かれています。
元図「コマ番号 7/11」リンク
絵地図初期設定画面左端に高台に移転する前の白須賀宿が描かれ、右端に「かわぎ村」と記述されています。絵地図を右にスクロールすると、「海道一番ミ大松」、「禅宗 とう心ん寺(東新寺)」、その下に「大くらど(大倉戸)」と記述されています。
[東新寺は、かつては真言宗の寺で大倉戸の一後坂というところに建立されましたが、大破したために寛永元年(1624)茅野へ境内地を移しました。正保二年(1645)に寺域を整備し、慶安四年(1651)東福寺三世春岳智栄和尚を開山として請待しました。このときから臨済宗南禅寺末寺と改めました。享保十一年(1726)に火災によって堂宇・寺宝・古文書などを焼失し、宝暦十二年(1762)に堂宇を再建しています。 (「東新寺 – 観光スポット・施設」より)]
[立場は、江戸時代に旅人や人足、駕籠かきなどが休憩する施設として、江戸時代に東海道の各所に設けられました。大倉戸の立場は、新居宿と白須賀宿の中間に位置します。 (「大倉戸の立場跡」より)]
元図「コマ番号 7/12」リンク
絵地図を右スクロールすると「志をミ坂(汐見坂)」が描かれ、その右の「行基作 くわんのん(観音像)」は明治末まで汐見坂の途中にありましたが、現在はその右の「ぞうほう寺(蔵法寺)」の本堂に安置されています。その下に「せいねん寺」、右端接続図に「白須賀 札辻」、「此遍ニ 一里塚あるよし 江戸から六十六里 京から五十四里」と白須賀一里塚が記述されています。
元図「コマ番号 7/13」リンク
絵地図設定初期画面上に猿ヶ馬場(湖西市境宿)姫小松の群落が描かれ、その右上に「一里塚 江戸から六十七里 京から五十三里」と東細谷一里塚が表示されています。絵地図を右スクロールすると「三河 遠江 堺橋」「さかい川」、さらにその先に「さるがばんば」、「くぜう坊」と記述され加宿境宿が描かれています。白須賀宿は高台に移転する前の絵地図の為描かれていません。
以降は五海道其外分間絵図並見取絵図(東海道分間延絵図_13巻之内6・文化3年(1806)完成)で、元禄14年(1701年)に津波で白須賀宿の移転後の図になります。
元図「東海道分間延絵図_13巻之内6-20」リンク
絵地図初期設定画面左が移転後の白須賀宿で、絵地図を右にスクロールすると汐見坂が描かれ、その右下の集落は元白須賀宿になります。
元図「東海道分間延絵図_13巻之内6-21」リンク