東海道絵図は「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図 巻第二 戸塚ヨリ小田原マデ[19]」、「東海道絵図 巻第三 小田原ヨリ三島マデ[14]」からダウンロードして利用しています。
元図「コマ番号 3/6」リンク
絵地図を右にスクロールすると「此遍 向谷」と記述、その右「一里塚 江戸から二十二里 京から九十八里」と記述され、湯本一里塚が描かれています。その右に「ゆもと(足柄下郡箱根町湯本茶屋)」と記述され、その右に「湯本(足柄下郡箱根町湯本) 入湯あり」と記述されています。
元図「コマ番号 3/7」リンク
絵地図初期設定画面に「此遍 てうし口と云」、「此遍 さるすべりと云」(猿滑坂)、「此遍 かしの木と云」(橿木坂)、「此遍 さいかちと云」(西海子坂)と記述、その右下に「一里塚 江戸から二十三里 京から九十七里」と記述され、畑宿一里塚が描かれ、その右に「はた(足柄下郡箱根町畑宿)」と記述されています。その右街道凹の部分が大澤坂で、その右「此遍 わり石と云」(割石坂)、更にその右「此遍 女ころばしと云」(女転ばし坂)と記述され、その右「かわばた(須雲川村川端)」左に「さうん寺(鎖雲寺)」が描かれています。
[須雲川村 – 古くは、箕作と言った。その頃、民家は2、3軒で箕を作っていた。その後、一之瀬と改め、さらに須雲川となる。寛永11年(1634)須雲川村新設。正保国図には「湯本之内須雲河村」とある。
●小名 川端…集落の密集している地域。
●女転シ坂…元々の街道は須雲川を渡って河原から斜面を直登していたが、今の県道は急勾配を避けて走っている。そのため、かつての急坂を見ることはできない。 (「新編相模国風土記槁・須雲川村 – 畑・釣り・読書」より)]
元図「コマ番号 3/8」リンク
絵地図初期設定画面左上に「本はこね権現」(箱根神社)、そこの右下に「本はこねヘノ道」、「此遍 八町坂(※権現坂)と云」、その右に「此遍 がいし(?蓋石)なげと云」(天ヶ石坂)、絵地図をスクロールすると「此遍 白水と云」(白水坂)、「此所 をいだしと云」(追込坂)、「此遍 向谷」、「此遍 てうし口と云」と記述されています。
元図「コマ番号 3/9」リンク
絵地図初期設定画面左下に「箱根 札辻」、そこの右上に「御番所」、右上に「一里塚 江戸から二十四里 京から九十六里」と記述され、葭原久保の一里塚が描かれています。さらにその右上に「さいの河原」、「本はこねヘノ道」と記述されています。
元図「コマ番号 3/9」リンク
絵地図初期設定中央右に「ごくらく寺」、「せう志かんおん」と記述されています、この付近が「芦川の石仏群」付近と思われます。絵地図を右にスクロールすると「御茶屋」と記述され、箱根宿が描かれ、右端に「箱根 札辻」と記述されています。
元図「コマ番号 3/10」リンク
絵地図初期設定画面に「此遍 かれ木坂ト云」(願合寺地区の石畳・小枯木坂)、その右下に「一里塚 江戸から二十五里 京から九十五里」と記述され山中新田(接待茶屋)一里塚が描かれていますが「一里塚」の位置は間違いのようで、絵地図を右にスクロールすると「此遍 石原坂」(石原坂(念仏石))と記述され、この先に一里塚があったようです。石原坂の右方向に、「伊豆 相模 堺」(箱根峠)、芦ノ湖が描かれています。「伊豆 相模 堺」から右方向芦ノ湖へ下る最初の坂道が旧東海道(箱根旧街道)挟石坂になります。