東海道絵図(興津宿)

興津(おきつ)は、静岡県静岡市清水区の地名。この辺りの海辺は、古くから清見潟と呼ばれ、歌枕として名を馳せた。
興津という地名は、興津宗像神社祭神の1柱・興津島姫命(おきつしまひめのみこと)がこの地に住居を定めたことからといわれている。また、平安末期から興津氏が居住していたのでその名を地名にしたとの説もある。古代での呼び名は奥津 (おくつ) 、息津(おきつ)、沖津 (おきつ) ともいわれている。現在、興津と呼ばれる区域は1961年に当時の清水市と合併した旧興津町と重なる。
風光明媚で知られた清見潟は、古代、清見関(きよみがせき)と息津(おきつ)駅が置かれた。この場合の息津は現在の興津と異なり、西寄りの横砂あたりではないかと言われている。江戸時代には興津宿として東海道五十三次の17番目の宿場町として発展し、明治以降は鉄道が開通したことにより、西園寺公望などの元勲の別荘が建ち、避寒地として全国的にも知られていた。現在、清見潟の海岸寄りは埋め立てられ、清水港の興津埠頭となっている。
江戸時代
1601年-宿駅伝馬制度により興津宿駅が制定される。(東海道五十三次の17番目の宿場町、興津宿)
1663年-府中に駿府代官所が置かれ、清見寺・興津・中宿・洞・薩埵・八木間がその支配下となる。承元寺は清見寺領。
1793年-興津・中宿・洞・八木間が韮山代官所の支配となる。
最終的に東海道五十三次興津宿の旅籠は、本陣脇本陣含めた38軒前後存在した。(その後、脇本陣であった水口屋は一新講社で全国的に知られる様になった。)  (wikipedia・興津より)

東海道絵図は「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第五 江尻ヨリ金屋マデ」よりダウンロードして利用しています。

元図「コマ番号 4/21」リンク

絵地図初期画面中央左に「此道本道」と記述され、その右に「おきつ川」、「さった(静岡市清水区興津東町)」と記述され、その右に「むかしの道今も風なき時ハ歩行ニテ通ル」と海岸線の道が示されています。絵地図を右スクロールすると、薩埵峠が描かれ、「大浪の時此上道を行く」、「此下むかし道の おや志らす子志らす(波打ち際を駆け抜ける際に親は子を忘れ、子は親を顧みる暇がなかったことから親知らず・子知らず)」と記述されています。

元図「コマ番号 4/22」リンク

絵地図初期画面中央に「清見寺」、右下に「わんかい寺 ? 」、「不動」と記述され、右方向にスクロールすると絵地図接続部端に「魚津 札辻」(高札場)と記述、その右方向街道上に、「ようかい寺(耀海寺)」と「志げん寺(理源寺)」、この間の橋は沢端川橋でそこに「舟積法看ノ札 ? 」と記述され、舟の高札が描かれています。その先に「れうかう寺(龍興寺)」と記述され、「一里塚 江戸から三十九里 京から八十一里」と興津一里塚が表示され、その右に「女体の森」「弁才天」(興津宗像神社)と記述されています。絵地図で見ると興津宗像神社と一里塚の中間あたりが興津宿東木戸になり、この地点は身延道(甲州往還)起点になると思われます。

元図「コマ番号 4/23」リンク

絵地図初期画面下に「すゞき志ま(鈴木島・庵原川と愛染川の間)」「ほそい松原(細井の松原)」と記述され、絵地図を右にスクロールすると「よこすな(静岡市清水区横砂本町)」と記述されています。

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