蒲原宿(かんばらしゅく)は、東海道五十三次の15番目の宿場である。現在の静岡県静岡市清水区にあたる旧蒲原町に位置する。
吉原宿から富士川を渡って最初に到達する宿場である。降雪の少ない東海地方であるが、歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』では雪景色で描かれており、1つの謎とされる。
2020年(令和2年)6月19日に文化庁が認定する日本遺産『日本初「旅ブーム」を起こした弥次さん喜多さん、駿州の旅~滑稽本と浮世絵が描く東海道旅のガイドブック(道中記)~』(藤枝市・静岡市共同申請)の構成文化財の一つとして認定された。蒲原宿内の旧和泉屋(お休み処)、志田家住宅主屋も構成文化財として認定されている。十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」の中では、蒲原宿大名行列の一行に紛れ込んでご馳走にありつく弥次さん喜多さんのエピソードなどが描かれている。
歌枕である古来の田子の浦は、この辺りである。 (wikipedia・蒲原宿より)
慶長6年(1601)に東海道の宿駅に指定された蒲原宿は江戸から数えて15宿目に当たる。
慶長5年(1600)幕府領、慶長14年(1609)徳川頼宣領、元和5年(1619)幕府領、寛永元年(1624)徳川忠長領、寛永10年(1633)より幕府領となり明治になっている。
江戸時代の蒲原宿は富士川を控えた宿場町として繁栄し、富士川の川留めの時には、渡しを待つ旅人で賑わったという。
元禄12年(1699)大津波に襲われ、壊滅的な打撃を受けた。そのため現在のJR新蒲原駅の南側にあった宿を、北側の山裾(新坂)に宿替えが行われた。 (「静岡市蒲原宿の町並み」より)]
蒲原御殿は将軍家が上洛の際に使用した宿泊場所とした記録が残っています。しかし、将軍家の上洛の必要性が無くなったこともあり、3代将軍家光公が宿泊をされたのを最後に使用されなくなりました。その後、元禄12年(1699年)の大津波により流されてしまった蒲原宿の移転先となりました。 (「御殿山 ごてんやま – 静岡市 – するが企画観光局」より)]
東海道絵図は「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第四 三嶋ヨリ江尻マデ」よりダウンロードして利用しています。
元図「コマ番号 4/15」リンク
絵地図初期画面中央上に「いわぶち(富士市岩淵)」、その右に「禅宗 せいげんいん(清源院・宝永4年(1707)現在地に移転。(「至富士IC」より)」 、その右に「一里塚 江戸から三十五里 京から八十五里」と岩淵の一里塚が記述されています。接続絵地図下に「水のもやうによ里上道を行」と記述され、この付近左側に旧小休本陣常盤家と移転後の清源院があることになり、上道が身延道分岐(甲州往還)になります。絵地図をスクロールすると「富士川舟渡し」と記述されています。
元図「コマ番号 4/16」リンク
絵地図をスクロールすると「此道本道なり近年道のはし(橋・小池川)落ち荷下道河原わたる」、「中のごう(富士市中之郷)」、「そうせい寺(宗清寺)」、その右に「新町(中之郷新町)」と記述されています。
伊能大図,街道絵図,文献に基づく東海道の変遷と富士川流路の位置.基図は正式地形図(1887 年測量),右図は東海道分間延絵図(街道絵図).街道絵図中の楕円は「蒲原地震山」の推定位置.(a)現存する等覚寺と宗清寺周辺の絵図,(b)付け替え前の東海道(宮本, 1998),(c)外堤と突堤および長堰堤. (「古地図・空中写真の解析による安政東海地震前後の富士川下流域の地形変化と蒲原地震山」より)]
元図「コマ番号 4/17」リンク
絵地図初期画面設定左上に「こがね(静岡市清水区蒲原小金)」、右端に「せんげん」、「御茶屋ヘノ道」と記述されています。「せんげん」は和歌宮神社(若宮浅間社)のことと思います。絵地図を右にスクロールすると蒲原宿東木戸先にも「御茶屋ヘノ道」が記述されていて、「御茶屋ヘノ道」が現在の旧東海道に当たると思われます。この絵地図は元禄12年(1699)大津波以前の地図で現在の旧東海道と合致していません。「御茶屋ヘノ道」下に「上道本道なり近年道のはし(橋・小池川小池橋)落ち荷下道河原わたる」、その左に「此所よ里吉原へ近道(下街道)」と記述されています。
下図は1668(寛文8)年の「従江戸伏見迄木曾路・中山道・東海道絵図」の一部で、所替え前の東海道、蒲原宿(15番 現在、静岡市清水区)を描いている。
街道の北側(山側)に蒲原御殿が大きな面積を占めている。御殿を東西から挟むように街道とは別ルートの道が描かれており、すでに山側を通る道のルートがあったと考えられる。
蒲原御殿は徳川家康が1582(天正10)年の蒲原入城のときに急遽建築したものとされるが、被災では山崩れや沢崩れも起こっており、御殿もこのとき崩壊したのではないかと考えられている。
加えて山側には寺院と神社が5つずつ存在した。さらに、旧東海道の北側一帯は「イカリマ」と呼ばれ、蒲原の方言で「田圃がいかった」「村がいかった」と使われるが、「いかる」というのは「埋められた」という意味で、「いかりま」は波で埋没した処であり、台風による高潮がこの場所まで襲ってきたことを意味している。だから、イカリマよりも高い位置に街道を通すことが求められた。新しい宿場は山を背に立地していた寺院や神社に寄り添うように、計画されたといえる。
新しい宿場は、北側に山を背負い、南斜面の緩やかな傾斜地である。山から流れてくる山居沢は宿場の最も標高の高い11.0mの位置を流れ、宿を横断する。ここを宿場の拠点に定め、問屋場および本陣を配置したのである。そしてここを変曲点に、街道の道筋がS字に緩やかにカーブしている。これは山居沢の東側は山裾に広い面積を有する寺院があり、西側はその南に広大な面積を有する寺院が存在していたため、東半分は2寺院の敷地を大きく取り囲むように南側にふくらむカーブとなり、西半分は山裾の等高線に沿って北側にふくらむカーブとなったと考えられる。 (「江戸時代の被災地復興計画」より)]