藤枝宿(ふじえだしゅく、ふじえだじゅく)とは、東海道五十三次の22番目の宿場である。現在の静岡県藤枝市の山沿い、同市本町および同市大手にかけての一帯にあたる。
歴代の城主が江戸幕府の要職を務めた田中城の城下町として、また塩の産地であった相良に至る田沼街道への分岐点として、最盛期には旅籠が37軒あり、商業地としても栄えた。
明治時代に入り東海道本線が建設される際、当初は宇津ノ谷峠 – 藤枝宿 – 島田宿というルートとなる予定であったが、地形が険しい上に遠回りになることから大崩海岸 – 藤枝宿 – 島田宿へと変更され、最終的には大崩 – 焼津 – 島田宿がルートとして選ばれることになった。このため、1889年(明治22年)に開業した藤枝駅は宿場町から3キロメートルほど離れた位置に設けられた。なお、これに関して蒸気機関車の煙や火の粉を心配した住民が線路の建設を拒んだ(鉄道忌避伝説)という俗説があるが、当時の新聞記事や県知事への上申書には藤枝宿で積極的な誘致運動があったということしか記録されておらず、反対運動があったという証拠はまったく発見されていない。
駅が設置されなかったことで宿場町や商業地として停滞を余儀なくされたため、1913年(大正2年)、藤相鉄道が旧宿場町に通じ、藤枝本町駅、大手駅等が設けられたが1964年(昭和39年)に廃止された。 (wikipedia・藤枝宿より)]
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元図「コマ番号 5/14」リンク
絵地図左に「禅宗 ようめい寺(養命寺)」、その右の「屋形」と記述場所は大手口になり、絵地図を右スクロールすると、池が描かれ、上に「あぶみかふち(鐙ヶ渕)」、右に「禅宗 ぜんきょじ(全居寺)」、「水も里(藤枝市水守)」、「やわた(藤枝市八幡)」と記述され、接続図の「八まん山(青山八幡宮)」下に「やわたはし(八幡橋)」、右に「一里塚 江戸から四十七里 京から七十三里」と鬼島の一里塚が表示され、「田中ヘノ道」は田中城への道筋になります。
元図「コマ番号 5/15」リンク
絵地図方位の左に瀬戸川が描かれ、その左に「志だつか(志太塚・藤枝市志太)」、「一里塚 江戸から四十八里 京から七十二里」と志太一里塚が表記され、瀬戸川右に「せうぜう寺(正定寺)」と記述され、そこの右側に「藤枝 札辻」と記述されています。絵地図を右にスクロールすると「神明」、「日蓮宗 大けい寺(大慶寺)」、「禅宗 とをうん寺(洞雲寺)」、「長こく寺」、「やくわう院」、「浄土宗 とうめう寺」、「一向宗 れんせう寺(蓮生寺)」、「禅宗 長らく寺(長楽寺)」、「浄土宗 浄せん寺(了善寺)」、「禅宗 ようめい寺(養命寺)」と記述されています。
元図「コマ番号 5/16」リンク
絵地図初期設定画面右に「せと(藤枝市瀬戸新屋)」と記述され、絵地図を右にスクロールすると「是から東 田中領」、「南やむら(藤枝市南新屋)」と記述されています。
元図「コマ番号 5/17」リンク
絵地図を右にスクロールすると「一里塚 江戸から四十九里 京から七十一里」と上青島一里塚が表記されています。