吉田橋関門跡

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吉田橋関門跡
[開港直後、開港場への出入り口として、ここに吉田橋が架けられた。
橋には関門が設けられ、開港場の治安を図った。関門を境に海側を関内、陸側を関外と呼んだ。
碑文
史跡 吉田橋関門跡 横濱市長 平沼亮三書
昭和二十九年月建 開国百年祭記念
横浜市地域史跡 吉田橋関門跡(よしだばしかんもんあと)
平成五年十一月一日 登録
所有者 横浜市
安政六年(一八五九)六月二日、横濱が開港となって交易場、貿易港として栄えるにしたがい、幕府は、開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜路を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋を架け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことにより「吉田橋」と呼ばれました。
吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心地となり、その治安を図るため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まりました。
関門は、当初港町側に設けられましたが、文久四年(一八六四)二月に吉田町側に移設されました。
関内、関外という呼び名はこの時以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢佐木町側を指し、その関門は明治四年に廃止されました。
    平成六年三月  横浜市教育委員会  (「横浜市地域史跡 吉田橋関門跡 – Monumento」より)]

吉田橋
[江戸時代吉田勘兵衛により埋め立てられた吉田新田と、太田敬明により埋め立てられた太田屋新田の間に流れる派大岡川には、1859年(安政6年)の横浜港開港の頃に仮橋が架けられ、東海道と横浜港を結ぶ横浜道が通された。外国人居留地とその外部を隔てる関門番所がおかれ、この関所の内側にあたる一帯は現在でも関内と呼ばれている。3年後の1862年(文久2年)には仮橋から木造の本橋に架け替えられた。この橋は多くの橋脚を立てなければ耐えられないほどの簡易なもので、馬車の通行に支障をきたすと居留地の外国人らから苦情が寄せられた。これを受け、1869年(明治2年)にお雇い外国人の灯台技師リチャード・ブラントンにより錬鉄製の無橋脚トラス橋に掛け替えられた。鉄材はイギリスに発注され、橋長は約13間(約23.6m)、幅約5間(約9.1m)、トラスの高さは約6尺(約1.8m)で、工費は当時の額で7000円であった。1869年11月の完成から1874年6月までの間は馬車1銭、人力車5厘の橋税(通行料)が徴収され、「鉄」と「金銭」をかけて「かねの橋」と呼ばれた。当時の絵師たちからも評判になり、五雲亭貞秀の『横浜鉄橋之図』、三代目歌川広重の『横濱吉田橋ヨリ馬車道之真景』などの錦絵に描かれた。吉田橋を通じて、関内の繁栄がかつて沼地であった伊勢佐木町に広がっていくが、のちの埋め立てにより橋が道路より低くなる事態となり、1877年に信州人の宮坂初太郎・土屋茂十郎によって、5隻の台船を橋の下に並べ、潮の干満を利用して橋を1.5m扛上する工事が行われた。
現在の橋は1862年の木造橋から数えて5代目にあたり、1978年に完成した。
吉田橋関門跡の碑・wikipedia-photo  (wikipedia・吉田橋より)]

吉田橋関門跡 – Google Map 画像リンク」「吉田橋 – Google Map 画像リンク

カメラ東南東方向に吉田橋関門跡碑と案内板が設置されています。