吾妻神社(吾妻権現宮)

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吾妻神社(吾妻権現宮)
[創建年代は不明ながら、本牧原一円の鎮守として、かつては吾妻権現社、吾妻明神社と称し、「新編武蔵風土記稿」「江戸名所図絵」にも紹介されている。
戦災で失われた神体像は、髪を束ね、右手に剣を持ち、左手を帯に挟んで立つ姿で、煤のため真っ黒になっていたといい、その背面に「文和三年(1354)正月十七日祠基新謹平重広」と銘記されていたと伝わる。新田義貞の臣・篠塚伊賀の勧請とする説はこのへんから出ているという。
伝承によれば、神体像はかつて「向こう地」と呼ぶ江戸湾対岸の上総国木更津にあり、「お吾妻さま」として崇められていたという。たいそう子供好きの神様であったといい、ある寒い日、焚き火を囲む子供たちを見て、子供の姿に化身し、仲間に加わろうとしたが、子供たちは見かけない子供を仲間に入れず、焚き火の中に突き転ばして逃げ去ってしまった。あまりの熱さに「お吾妻さま」は海に飛び込み、そのまま本牧の浜に流れ着き、地元の漁師吉兵衛の網にかかった。吉兵衛は焦げた「お吾妻さま」の腹部に布を巻いて本牧の地に祭ったという。ひどい目に遭った「お吾妻さま」ではあるが、子供好きであることに変わりはなく、小児の病難を救い、癇の虫を封じてくれたため、安産の神様、子供の神様、虫封じの神様として信仰され、願いが叶ってお礼参りする人々は、いつしか神前に粟餅を供えるのが恒例になったという。  (「神奈川県神社庁/神社検索/吾妻神社」より)]

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図 」・「本牧 吾妻権現宮」(6-6)、「本牧の地」(6-7)、「吾妻明神社解説」(6-2)
本牧 吾妻権現宮(拡大図)

本牧の地(拡大図)

[この挿絵は、上の挿絵の左側に続いているようです。絵には以下のような説明があります。
「本牧の地は神奈川駅の南に続きて海上に鋭出(さしいで)たる一方の景地にして勝區(しょうく)を探る人おりおり道をここに取ると見えたり。按ずるに本牧の名はもしくは昔時(そのかみ)牧馬(ぼくば)の地たる故にこの称あるものか。今は海利(かいり)魚鹽(ぎょえん)の郷(きょう)となり漁人(ぎょじん)の家多く常に魚を取りて東海の駅路及び東都の市にも輸(おく)り鬻(ひさ)ぐ(生業とする)なるべし」  (「歴史散歩 江戸名所図会 巻之ニ 第六冊」より)]

吾妻神社 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向が吾妻神社参道です。