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五海道其外分間延絵図並見取絵図(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム)
平戸村図(拡大元画像・絵図東海道中央、「字境木立場」と記述され、その左上に武蔵 相模 國境」その下に「地蔵」と記述されています。)
境木
[正月の箱根駅伝でも有名な権太坂。現在の国道1号よりも西側に江戸時代の東海道のルートがあります。
かつての権太坂は一番坂、二番坂と急勾配が続き、江戸を出発した旅人が最初に迎える難所として知られていました。
また、この難所を登り切ると武蔵国と相模国の国境にあたる境木にたどり着きます。境木はきわめて眺望が良く、難所を越え一息つける場所として茶屋が軒を連ねていました。その様子は浮世絵にも描かれています。
人々は境木地蔵尊に詣でたり、名物の牡丹餅を食べながら遙か西に見える富士山を眺め、これからの旅に思いを馳せていたのでしょうか。
特に江戸で生まれ育った人にとっては、生国である武蔵国から他国に入るという感慨を持ったようです。 (「横浜市保土ヶ谷区ホームページ – 東海道 保土ケ谷宿」より)]
境木地蔵
[境木地蔵(さかいぎじぞう)は、神奈川県横浜市保土ケ谷区にある、地蔵菩薩を祀る仏堂。旧東海道の武蔵国と相模国との国境にあたる。
伝承によれば、鎌倉の由比ガ浜に漂着した地蔵菩薩像を漁師が浜に祀ったところ大雨で流出してしまい、数年後腰越に流れ着いた。夢で地蔵から江戸の方へ行きたいと告げられた漁師は、像を牛車に乗せて運んだが、当地で車が動かなくなってしまった。漁師から地蔵像を託された村民は、夢告により地蔵堂を作り安置したところ、村が繁盛したという。堂が建立されたのは、万治2年(1659年)である。
地蔵堂はもとは良翁寺の境内にあったが、同寺は関東大震災で被災して廃寺となり、現在は地蔵堂のみが残る。堂の所在地は旧東海道の権太坂頂上にあたり、江戸時代は茶屋が多く大変賑わった。また茶屋では焼餅が名物で、地蔵尊より戸塚よりの坂は焼餅坂とよばれる。また地蔵尊より数百メートル戸塚よりには、品濃一里塚が江戸時代のままに残されている。
門前は2005年に拡幅整備され、地名の由来にもなった「武相国境之木」モニュメントが設置されている。
地蔵堂の近隣には境木商店街があり、5月~8月の最終金曜日に縁日が行われる。また境木商店街にある和菓子屋では「おじぞうさんもなか」といわれる境木地蔵をモチーフとした和菓子が名物となっている。地蔵堂の裏手には、緑地公園、境木ふれあい樹林があり小規模な池なども存在する。
武相国境之木・wikipedia-photo、境木地蔵堂-裏手の緑地は「境木ふれあい樹林」・wikipedia-photo (wikipedia・境木地蔵より)]
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図 」・「境木」(6-12)、「科濃坂 権太坂とも云」(6-13)、「品野坂(権太坂)解説・画像中央」(6-14)
境木(拡大図)
[図会左ページに地蔵が描かれています。]
[境木(さかいぎ)について江戸名所図会の本文では「立場(たてば)にして道より右に武蔵相模の国界(くにさかい)の傍示(ぼうじ)を建るが故にこの称(しょう)あり。此の地牡丹餅(ぼたんもち)を名産とす。これを製する店両三家あり」と書かれており、絵にもその一部の文が書かれています。 (「歴史散歩 江戸名所図会 巻之ニ 第六冊」より)]
科濃坂 権太坂とも云(拡大図)
「武相国境モニュメント – Google Map 画像リンク」「境木地蔵尊 – Google Map 画像リンク」
カメラ西方向に「武相国境之木」モニュメントがあります。また、カメラ北方向が境木地蔵尊参道です。