ストリートビューの初期設定位置は宗三寺です。
地図上のアイコン上でマウスクリックし、アイコン移動すると、移動アイコン位置にストリートビューが存在すれば地図下のストリートビュー画面が、その位置のストリートビューに表示変更されます。また、ストリートビュー画面で移動すると地図上のアイコンも移動します。
五海道其外分間延絵図並見取絵図(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム)
川崎宿図(拡大元画像・絵図の東海道中央に「砂小町字高札場前石橋」上方向に「宗三寺」と記述されています。)
宗三寺
[宗三寺は戦国期あるいは室町時代に開創したと考えられている。中世の河崎庄で信仰を集めた勝福寺の後身とみられ、その後、小田原北条氏家臣の間宮豊前守信盛が中興し、その法名である「瑞栄院雲谷宗三居士」から宗三寺と名付けられた。江戸時代、旅籠には「平旅籠」と「飯盛旅籠」があった。飯盛旅籠は、旅人に給仕をしたり床を共にしたりする飯盛女(めしもりおんな)を置く旅籠のこと。飯盛女とは年季奉公で近郷から売られてきた女性たちで、一般旅行者の増えた江戸後期には旅人を留めて宿場の財政を支える大きな役割を果たしていたが、多くは体を壊し、墓にも入れずに打ち捨てられた。供養塔はそんな女性たちの冥福を祈って、大正初期に川崎貸座敷組合によって建てられたものである。台座には、吉田楼、三浦屋、高塚楼など当時の遊郭楼の名前が刻まれ、また江戸時代の川崎宿の人口が男1080人、女1353人とも記されている。昭和63年(1988)に川崎今昔会によって建てられた供養塔も左側に寄り添っている。また、「烏八臼(うはっきゅう)」といわれる、いまだ解明されていない謎の文字が頭部に刻まれた墓石がある。烏八臼は室町時代から江戸時代後期につくられた曹洞宗や浄土宗関係の墓標でよく見られる。鳥を意味するものであるとか、梵字合字の崩れであるなどの諸説がある。(「かわさき区の宝物シート」より)]
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図 」・「河崎 宗三寺 養光寺 佐々木宮」(5-17)、「瑞龍山宗参寺解説・右ページ3行目から」(5-16)
河崎 宗三寺 養光寺 佐々木宮(拡大図)
[図会下に宗三寺が描かれ、その上に養光寺 佐々木宮が描かれています。養光寺は今はなく、佐々木宮は稲毛神社境内に遷座しています。]
カメラ西北西方向が宗三寺参道です。