寿福寺

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寿福寺
[寿福寺(じゅふくじ)は、神奈川県川崎市多摩区にある、臨済宗建長寺派の寺院。山号は仙谷山。
江戸時代後期に刊行された『江戸名所図会』に寿福寺とともに、周辺の景観「仙谷十景」も紹介されている。 境内一帯の樹林は、川崎市と緑地協定を結んで保全している。 山号にもなっている地名「仙谷」は、文字どおり仙人が住むような山谷であったことから。 寺伝によると「この山に仙人道鏡がこもり、練行修身をつんだので″仙谷″と呼ばれた」とあり「道鏡谷」とも呼んだという。
沿革
『江戸名所図会』によれば、古墳文化時代の「 推古6年(598年)に聖徳太子が建立」 と書かれている。
康平3年(1060年)に源頼義奥州征伐出陣の途中、この地に宿し、当山観音堂に参籠して開運を祈願する。
文治元年(1185年)源義経弁慶が大般若経を奉納。
●たび重なる火災によって寺は荒廃していたが、鎌倉にある建長寺87世の大安法慶禅師が永徳年間(1381~84年)に中興し、天台宗から臨済宗へ改宗。
永徳2(1382年)年に足利幕府の第2代関東公方だった足利氏満によって大会堂、善応殿( 本堂) 、擁護廟の3つの堂宇が造営された記録もある。
明治8(1875年)年3月19日の火災では、殿堂と観音・虚空の両菩薩を焼失する。本堂は再建するも、明治28年9月3日に火災にあう。
大正8年に32世積道和尚が本堂を再建する。
昭和41年に33世孝宗和尚が庫裡と観音堂を再建。
寿福寺山門・wikipedia-photo

本堂・wikipedia-photo

  (wikipedia・寿福寺_(川崎市)より)]

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図 」・「壽福寺」(10-54)、「吐玉水」(10-56)、「仙谷山壽福禅寺解説-1・左ページ中程から」(10-53)、「仙谷山壽福禅寺解説-2」(10-55)、「仙谷山壽福禅寺解説-3・右ページまで、吐玉泉解説・左ページ中程」(10-57)
壽福寺(拡大図)

吐玉水(拡大図)

[本文を見ると、
「吐玉泉 寿福寺より後ろの方の谷を隔てて西の山際、農民の地にあり。水源白砂を吹きだすゆえに号とす。昔は小沢の白清水という。」(ちくま学芸文庫『新訂 江戸名所図会3』市古夏生・鈴木健一校訂 筑摩書房p.503)
となっています。
地図でみると、寿福寺の西側に谷がありますので、この谷に豊富な湧水があったのでしょう。あるいはよみうりランドの中だったら、もう無くなっている可能性があります。この谷戸の名称は知りませんが、現在のこのあたりの地名は、川崎市菅仙谷1となっています。
梨畑で作業していた方に話を伺うと、昔は白清水といっていて、下地の砂の色が白かったからだという話をしてくれました。文庫本の絵を見ていただくと、そこに描かれている家は、その方のお宅の一部(当時の建物はもちろんすでにないそうですが)で、江戸名所図会の刊本も所有しているとのことでした。この絵のポイントが分るとは思ってなかったので、かなりうれしい気分です。
左側の絵に描かれている湧水が、谷の西縁だとすると、右側の絵は谷の下流側を描いていることになり、描かれている丘陵は、小沢城址の丘陵が候補にあがります。その下に、寿福寺からの続きの尾根の末端が、右から張り出す形で描かれている(この絵ではわかりにくいかもしれませんが)ことになります。  (「川崎市菅仙谷 白清水(吐玉水) – 失なわれゆく風景」より)]

仙谷山寿福寺 – Google Map 画像リンク

カメラ西南西方向が寿福寺参道です。

カメラ西方向が寿福寺本堂です。