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五海道其外分間延絵図並見取絵図(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム)
市場図(拡大元画像・絵図中央右下に「専念寺」と記述されています。)
専念寺
[もとは観音堂であったが、後に京都・知恩院の僧が住持して一寺になったと伝えられる。現在も本堂に接して観音堂があり、定朝作・紫式部の持念仏とされる千手観音が祀られる。
江戸時代は多くの参詣人でにぎわい、特に天保13年(1842年)に、徳川家宣の娘・盛姫(1811年-1847年:肥前国佐賀藩十代藩主 鍋島直正室)の帰依を受け、寺門の興隆をみた。富士山から飛来したという「夜光石」や「お乳石」も有名である。
「延命子育地蔵尊の由来」
弘安2年(1272年)7月、鎌倉武士を祀るため、六郷川の渡守・宇吉という人が建立したと伝えられる。その功徳は熱病・吹出物・皮膚病一切を治したので、とくにイボ地蔵尊の名がある。
「十一面千手観音菩薩」
仏師・法眼定朝作(平安時代中期)で紫式部の持念仏といわれる。むかし近江国石山寺より愚蔵坊・昭西(当寺開山)が奉持して東国へ下向の際、故あって一心山専念寺(この寺号は知恩院大僧正が将軍家に招かれた際、当地に立寄り下賜されたもの)を建立・安置した。その後、毎月17日を縁日として市が立ち、ボロ市と称した。これが鶴見の市場村の起縁。 (「鶴見川の流路 (4)専念寺 : 鶴見寺尾図逍遥」より)]
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図 」・「市場観音」(5-19)、「観音堂解説・左ページ6行目から」(5-18)
市場観音(拡大図)
カメラ西方向が専念寺です。