小土呂橋

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五海道其外分間延絵図並見取絵図(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム)
川崎砂子宿図(拡大元画像・絵図の東海道左に「小土呂町字砂子小土呂境石橋」と記述されています。)

小土呂橋
[小土呂橋の親柱(擬宝珠)
江戸時代川崎宿を構成していた4つの町のひとつが小土呂町(現在の小川町)である。八丁畷の西側一帯は秣(まぐさ)沼、鷭(ばん)沼と呼ばれる大きな沼があり徳川将軍家の鷹狩場となっていた湿地帯であった。六郷川(多摩川)の洪水時に氾濫した水を貯め、水位が下がると古川(現在の銀柳街)を通じて六郷川に排水された。しかし増水が長引くと排水は容易でなく、度々冠水し東海道の往来に支障をきたした。農業生産性も低い土地であったため、水田耕地の安定と収入の向上のため、慶安3年(1650)江戸幕府直営により新たな排水路「新川堀用水」が開かれた。全長2.1km、幅5.4mの流れは大島村の入樋(水門)を経て江戸湾へと注ぎ、「悪水」を海に直接排出することが可能となった。
当初の小土呂橋は木の橋だったが、享保11年(1726)に田中休愚が石橋に架け替え、3年後にはベトナムから幕府に献上される象が渡った。寛保2年(1742)の洪水によって大破したが、翌年に幕府御普請役水谷郷右衛門が新たな石橋を再興した。以来この石橋が明治大正を通じ190年間にもわたり人々の往来に供されてきたが、昭和6年(1931)からの工事によって親柱など上部の構造物を残しあとは新川堀もろとも埋められた。そして50年が経過し、親柱が小土呂橋交差点に復活したその翌年、埋められた小土呂橋の一部が陥没した道路の下から発掘されたのである。
石柱に刻まれた銘文(設置年代・設置者・石工の名前など)から、寛保3年築造の石橋であることが明らかとなった。小土呂橋は市内に残る少ない近世石造橋の中で最も年代が古く、幹線街道に幕府御普請所によって架橋されたことから当時の事情や構造等を解くことができる諸々の資料も残されており、史料的価値の高いものであるという。なお、この花崗岩制の親柱(擬宝珠)は大正時代に高欄などとともに新たに取り付けられたものとみられている。  (「かわさき区の宝物シート」より)]

カメラ位置は小土呂橋で、カメラ西南西方向、カメラ北北東方向が旧東海道です。

小土呂橋交差点西角・カメラ南南西方向が小土呂橋の親柱(擬宝珠)です。

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