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五海道其外分間延絵図並見取絵図(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム)
戸塚宿・吉田町中宿図(拡大元画像・絵図東海道左方向、「字中宿」左に2ヶ所「脇本陣」と記述されています。その下の「問屋」と記述の場所が中宿問屋場になります。また、絵図東海道中央右方向、「吉田町」と記述され、その左上に「問屋」と記述場所が吉田町問屋場になると思います。しかし矢部町図には問屋場は記述されていませんが標柱が設置されています。)
戸塚宿・矢部町図(拡大元画像)
問屋場
[問屋場(とんやば・といやば)は、江戸時代の街道の宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、駅亭、伝馬所、馬締ともいった(本項の語意に於ける「問屋」とは、運送業を意味する。「問丸」の項を参照)。
業務の主宰者は問屋と称され、その助役の年寄、さらに人馬の出入りや賃銭などを記入する帳付、人馬に荷物を振り分ける馬指などの者がいた。通常の時は交代で出勤するが、大名行列などの大通行があるときは全員が詰めることになっていた。
1868年7月27日(明治元年6月8日)、明治政府は問屋場を伝馬所(でんましょ)、責任者を取締役(1駅あたり定員2名)と改めた。その後、1870年4月9日(明治3年3月9日)に取締役が廃止されて伝馬所は官(駅逓司)の管轄下に置かれ、1872年(明治5年)に伝馬所を含めた宿駅制度そのものが廃止された。 (wikipedia・問屋場より)]
[戸塚宿には3カ所(中宿、吉田町、矢部町)の問屋場あった。一つの宿場で複数の問屋場が存在していることはそれほど珍しいことではなく、戸塚宿では毎月1日~4日までは矢部町の問屋場が、5日~11日を吉田町の問屋場が、12日~晦日までを中宿の問屋場が担当することになっており、また藤沢・平塚・大磯・小田原・箱根の各宿では10日交替で2つの問屋場が担当することになっていた。 (「東海道と宿場の施設【問屋場】」より)]
カメラ南東方向電柱と街路樹の間が中宿問屋場案内標柱です。
矢部町問屋場標柱前のカメラです。(Google Map)