新田神社

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五海道其外分間延絵図並見取絵図(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム)
小土呂図(拡大元画像・絵図下中央左方向に「新田義貞社」と記述されています。)

新田神社
[川崎の地は中世から「河崎荘」として知られており、渡田も文献には残っていないものの、13世紀後半の銘が入った板碑や、「御正作」[武士の館周辺の耕作地]といった地名から、中世には武士の館があったとみられている。また、新田義貞が当地の不動尊に武運を祈願したと伝わるほか、義貞が戦死した後に、家臣であった亘新左衛門早勝がその形見を当地に持ち帰って供養を行い、のちには新田神社となったとされる。  (wikipdia・渡田より)]

[御祭神:新田義貞公、合祀:天照大神市杵島姫命宇迦之御魂神、亘新左衛門尉早勝
 例祭日:8月第1週日曜日
 由緒:旧村社で、社伝によれば、新田義貞公が延元3年(1338)、越前国藤島(現在福井市内)で討死の際、その臣・亘新左衛門尉早勝が公の差添の名剣と七ツ入子の名鏡及び錦の陣羽織の三種の品を持ち、この地に帰り、ひたすら冥福を祈って供養していたところ、里人らも公の徳を追慕し、早勝と共に永和元年(1375)これらを孤松の下に埋納し、廟を営んで新田大明神と崇め、この地の鎮守としました。また、正月元旦と7月2日の晩にはこの地に軍馬が嘶く声がすることがあり、これは河北矢口村(現東京都大田区新田神社)に鎮座されている公の二子新田義興公が父霊のもとに参るためと言われていました。
 昭和20年、戦禍により建物などことごとく焼失しましたが、昭和31年社務所、同38年社殿、同43年神楽殿を再建し、平成3年社務所を改築しました。  (「新田神社」より)]

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図 」・「河崎新田社 無動寺 亘新左衛門墓」(5-12)、「新田大明神社解説-1・左ページ中程から」(5-11)、「新田大明神社解説-2」(5-13)、「新田大明神社解説-3・右ページ中程まで」(5-14)、「御霊権現社 亘新左衛門塚」(5-14)、「亘新左衛門尉早勝居住旧址解説・左ページ3行目から」(5-15)
河崎新田社 無動寺 亘新左衛門墓(拡大図)

[右ページ右下に新田神社が、上に無動寺、左ページ中左に御霊権現 亘新左衛門墓が描かれている。]

御霊権現社 亘新左衛門塚(拡大図)

[亘新左衛門早勝の家については、無動寺の半町ほど西にあり、早勝が死んだ後、里人が旧恩を忘れず祠を建て早勝の霊を鎮め御霊権現とし、(絵図の時代には)その傍らに高さ三尺ばかりの墓があった、とあります。なお、亘家はこの辺りの豪族で、現在も、この辺りは渡田(わたりだ)といいます。亘新左衛門早勝の墓は、現在、新田神社の本殿の西隣に置かれています。  (「歴史散歩 江戸名所図会 巻之ニ 第五冊」より)]

新田神社 – Google Map 画像リンク

カメラ北西方向が新田神社参道です。

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